平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 66 - 70
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検非違使の中でも筒井のように色事に極端に鈍い奴や、三谷のようにそれなりに
近衛に近しい奴、あるいは淡泊なやつは別として、かなりの人間が気付いて
いたはずだ――あの滴るような近衛ヒカルの色気に。
加賀自身も、随分以前から「男のくせに、時折、小さな動作に妙な艶のある
やつだ」と言う風に、近衛ヒカルを認識はしていた。ついでに言うとその
理由も、噂に聞いて知ってはいた。
だがこの数日ほど、それを意識させられたことはなかった。
筒井の後ろから書き物を覗き込む近衛ヒカルの肩の線を眺めながら、今まで
自分が抱いた女達とどちらが抱き心地がいいだろうと比べている自分に
気付いて、あわてて頭を振ってその妄想を追い払った。
男色の気のない自分でもそうだ。他の奴等の目に、近衛ヒカルはいったい
どういう風に映っていることか。
だからこそ、うっかりこの捕物にヒカルを誘ってしまった後、加賀は思案に
思案を重ねていたのだ。
実際に、夜道を一人で歩かせられないと思った。男相手に何を考えてるんだと
思ったが、それほどに今の近衛ヒカルは、あぶなっかしく見えた。
まだ妻さえないのに、まるで一人娘をもった父親の気分だ。
大体が、検非違使の仕事はふたり一組で当たらせていたが、その相手の
人選にも頭を痛めた。
下手な相手と組ませて、その肝心の相棒役に暗闇で妙な気分になられては
元も子もない。
結局、検非違使庁内でもあの筒井以上に色事に疎く鈍そうな古瀬村を選んだ。
だから、その古瀬村がたった一人で松虫捕縛の現場に現れたとき、すぐに
近衛ヒカルの行方を問いただし、加賀は三谷を連れ、闇に包まれた右京の
はずれに探索に出たのだ。
その時は、まだあの年下の検非違使が、少しばかり血気にはやって、他の
松虫の部下でも追いかけていってしまったかと思う程度だった。
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それが、右京を出てすぐ、桂川の支流近くで、生臭い血の匂いをかいだ時に
嫌な胸騒ぎに変わった。
渡りかけた橋の付近に漂う鉄のような血の匂いと、青臭い――精液の匂い。
加賀が橋の下を覗き込むと、弱くなった松明の光りと、そば近くに人の影が
あった。
後は、先の通りの展開だ。
近衛ヒカルに暴行を働いたやつらを許すつもりなどない。だが、彼らは加賀が
知るかぎり、検非違使庁内でも勤務態度はごく真面目で、いっそ目立たない
ほどの者達だった。
彼らをこの暴挙に踏みきらせたのはなんだったのか……加賀は知っていた。
前髪を泥に汚し、半裸の姿で助けを求めるようにこちらを見るヒカルの姿に
胸を突かれた。
だが。だからこそ、加賀は言わなければならなかったのだ。
「しばらく、検非違使庁には出てくるな!」
と。
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遠くで一日の始まりの、大内裏の開門を告げる太鼓を打つ音がする。
だが、空にはまだ夜明けの気配がない。雲が厚いせいだろう。
三谷の狩衣を一枚、たよりなく羽織ったままヒカルは家に帰り着くと、ぐったり
とした体をひきづって寝室に向かった。
あの後、それでも気になって、加賀が盗賊達の大袋を検分するのを見ていたが、
青紅葉はなかった。
あったのはよく似た――おそらく同じ匠の手によって作られたのであろう別の
笛だった。
さすがにそのまま寝るには、あまりな状態だったので、自分で湯を用意して
体を清める。
後腔に手を遣り、盗賊達がそこに放ったものを自分で清めたときには、情けな
さに胸がふさいだ。
母が朝餉に呼ぶ声が聞こえたが、断って床についた。
明り取りの窓から、薄く朝日が差し込んでくる。雲は晴れたらしい。
体より、心が重かった。
こんな時、あの美しい人が生きていたら、どんなふうにヒカルを慰めてくれたの
だろう。
体の熱さは傷の発熱の為だけではない。溶けきらない四肢の奥からくるものだ。
心は沈んでいるのに、体だけが火照って不満を訴えている。
なんという因果な体か――。
どうしようもなく遣り切れない、哀しいような虚しいような、そして悔しいような
気持ちは、言葉で言い現しようもなく、ただヒカルはじっと目を閉じて、眠りが
すべてを飲み込んでくれるのを待った。
傷付いて、草むらに羽根を休める千鳥のように。
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開けた朝は、夜明け前が嘘のように素晴らしい秋晴れだった。
ヒカルはいつも通り、庭に出て太刀を振る。
大事な父譲りの太刀が、夜の路地で取り落とされたまま、盗賊の手に渡らずに
返ってきてよかったとヒカルは思う。
昨夜の出来事の中での唯一の慰めだ。
厩によって、それから身支度を整えて伊角の家にむかった。
伊角の家でも昨夜の大捕物は話題になっていて、
「どうだったんだ? 詳しく聞かせろよ、参加したんだろ?」
と笑う伊角に、ヒカルは黙ったまま曖昧な笑顔を返してごまかした。
そういえば、最近こんな作り笑顔ばっかりしているな、と自分でも思う。
最後にちゃんと笑ったのっていつだろう。
そのヒカルの顔を伊角が手のひらに包んで自分のほうへ引き寄せた。
「何?」
「おまえの顔、ちゃんと正面から見たくて」
例の夜以来、気恥ずかしくてまともに近衛の顔をみれなかったから、と言う。
伊角は時折、こんな赤面するような言葉を、なんのてらいもなく口に乗せて
みせる。
「ねぇ、伊角さん。俺、そんな物欲しそうな顔してるふうに見える?」
突然、奇妙なことを尋ねるヒカルに、伊角は笑みを浮かべた口元を少し引き
締めると
「どういう意味かわからないけど…」
と口ごもった。
「ここのところ、俺、そんなにおかしかったかな?」
「おかしくはなかったけど……」
「けど?」
「これ、言うと俺はこないだの前科があるから、近衛にもう口をきいて貰え
ないかもしれない」
「伊角さん?」
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「このところの近衛は、その、ひどく色っぽかったよ」
伊角が、出仕した内裏の片隅にヒカルだけを呼びだして、少し注意を喚起して
おこうかと思ったほどに。そんな事が気になるのは自分の邪さのせいだと、結局
呼びだすだけ呼びだして言わなかったのだが。
ヒカルは、少し暗い表情で目を細めた。
加賀の言った『物欲しげ』の意味は、やっぱりそうなのかと、胸が重苦しくなる。
「俺、迷惑かな?」
そのヒカルの体を、伊角はまわりに人の目がないことを確認することもせずに
思わず抱きしめていた。
驚いたのはヒカルだ。
伊角の黒の束帯の上着に埋もれたヒカルの耳に、穏やかな吐息のような囁きが
聞こえた。
「傍にいてくれ」
ヒカルの背にまわった伊角の手に力がこもった。
「あの夜にいった言葉は、酔っぱらったせいじゃないんだ。近衛が好きだから、
そばにいてくれると嬉しい。お前を女扱いにしてるわけじゃないんだけど
……怒るか?」
「怒らないけど……」
怒りはしないし、現にこうして伊角に触れられているのは悪い気はしない。だが、
ハッキリ言って昨日の今日だ。今は、同性にそういった対象として見られること
が疎ましく――気色が悪いばかりだった。
ヒカルは、夕暮れの陽射しの差す大通りを歩く。
空は燃えるように赤い。その赤と同じ色をしたトンボが群れをなして遥か上空を
飛んでいる。
伊角の家からの帰り道、いつもならこんな陽も落ちないうちに警護の仕事が終わ
れば、検非違使庁に寄るのだが、今日はそれは出来ない。
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