光明の章 66 - 70


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「お疲れさまでしたっ!」
ぺこりと頭を下げると同時に部屋を飛び出したヒカルの慌しい様子に、白川は苦
笑いを禁じ得ない。
「鉄砲玉のようだね、彼は」
「どうせ塔矢アキラっすよ。アイツ、何も今日見舞いに行かなくってもいいのに」
そんなヒカルの態度を快く思わない和谷の口調が自然と荒くなる。
「…塔矢の倅は倒れたそうだな。病状はどうなんだ、和谷」
最低限の情報は耳に入っているらしい森下が和谷に尋ねる。立ち上がりかけた和
谷は、バッグを持つ手を何度も横に振り「何も知りません」と言葉を返した。
「その話だってさっき白川先生に聞いたばっかしだし。大体森下門下のオレが塔
 矢門下と仲良くしてるわけないじゃないスか」
塔矢門下ではなく塔矢アキラ一人が気に食わないだけなのだが、個人的な悪口を
師匠に吐露するほど和谷は子供ではない。森下はそうか、とだけ頷いた。
「ま、重い病気だった時はオレも見舞いに行くとしよう」
「同期生のよしみでですか?なんだかんだ言って塔矢先生とは仲がいいですよね」
どうやらアキラの話は初耳だったらしい冴木の問いかけに、森下は「バカ言え!」
と笑いながらよいしょと腰を上げた。
「子を持つ親として他人事じゃあないんだよ。お前も結婚して子供が生まれれば
 わかる」
「オレの同期って…芦原さんだもんな。そう考えると芦原さんの将来が気になっ
 てきた。オレより先に結婚するのかな、あの人」
「その前にお前が昇段して見返してやればいいんだ」
「うわ、やぶへび」
おどけて肩をすくめた冴木の声に、みんなの笑い声が続く。
その頃、ヒカルはもうすでに棋院会館を飛び出していた。手には何故かA4サイ
ズの白い封筒が握られている。帰る際自分の靴の上に置かれていたものなのだが、
中身はまだ開封していない。表紙に『進藤ヒカル様』と宛名シールが貼ってある
ので、多分棋院からの物だろうと単純に考えていた。
「いまからウチに帰って塔矢んちに行って…今日は早く終わってくれてよかった」
普段歩きながら過ぎる場所をほとんど歩かず走りどおしだったので、結局二時間
も早く家に到着、台所で驚く母親に「今から塔矢のお見舞いに行って来る」とだ
け告げて二階に駆け上がった。
リュックは肩から下ろさず、先に封筒を開けようと机の引き出しを開けた。以前
棋院から渡された封筒を手で破って開けたところ、大事な書類まで一緒に破って
しまって大目玉を食らって以来、ヒカルはハサミを使うようになった。
「あった!あ、これ……」
ハサミの横に、懐かしいものを発見した。いつも棋譜のコピーに隠れていて目に
付かなかったのに、今日はどういうわけかちょこんと姿を現している。
今までは手に取る事すらなかったそれを、ヒカルは取り上げ、手の平でそっと包
んだ。熱い思いが手の平から身体中へと伝染するようだ。
「………塔矢………」
それはあの日、アキラから渡された合鍵だった。ヒカルはそのスペアキーを自分
の財布に取り付けた後、ハサミで気になる封筒の上部を一気に切り落とした。


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そのまま封筒を持ち上げ逆さに振ると、中から一枚の四角いケースが引力に逆ら
うことなく素直にこぼれ落ちてきた。他に何かないだろうかと封筒の奥を覗き込
んでみるが、その他には紙切れ一枚入っていない。
ヒカルは前へ屈むと、床の上に落ちた怪しげなケースを拾い上げた。表は真っ白
でタイトルも何も表記されていない。裏へひっくり返すとそこにはメーカー名と、
“このCD−Rディスクは印刷可能なディスクで…”といきなり見慣れない単語
が目に飛び込んできた。その先に続く説明を読んでもちんぷんかんぷんだったが、
とりあえずこの中身が市販のCDではなくCD−Rだというのは理解できた。
「CD−Rって普通のCDとどう違うんだろ。これじゃ聴けないのかな?」
言いながら、ヒカルは部屋のCDラジカセを軽く小突く。
「んー、でもわかんねーから和谷に電話して訊いてみよ」
リュックを下ろし、中から携帯を取り出すとヒカルはベッドに腰掛けながら和谷
へと電話をかけた。
──結局、それは個人が編集したものに違いないので、音だけなのか映像モノな
のかディスクを手に取って観察しただけでは判断できない、とのことだった。
音楽のコピーCDならラジカセでも聴けるが、映像だったらパソコンじゃないと
な、と和谷に言われ、「パソコンなんて持ってねーよ」と答えると、
『じゃあ今からオレの実家に来い。先に行って待ってっから』
と一方的に告げられ、さっさと電話を切られてしまった。
余計な仕事が増えたようで、ヒカルはやれやれと溜息混じりに肩を落とした。
一刻も早くアキラに会いたい。それなのに、タクシーで別れたあの日以来、何故
だか上手く事が運ばない。電話をかけても繋がらない、ただそれだけの些細なす
れ違いでさえ、見えない何かに邪魔されているような気がする。
会えないもどさしさはやがて焦りとなり、焦りは苛立ちへと変化する。ヒカルは
手にしていたケースを床に叩き付けたい衝動に駆られ、手を高く上げたところで
なんとか思い留まった。疑心暗鬼に陥りそうになるのは自分が弱いからだ。そし
て、アキラに対して負い目を感じているからだ。
──もっと強くなんなきゃな、オレ。
健気な誓いと共に、左手でスペアキーを握り締める。今は側にいないアキラの代
わりに、その鍵が自分に勇気を与えてくれる─ヒカルはそんな気がしていた。
「おっと、もう行かないと時間ないな」
CD−Rを片手に慌ててリュックを担ぎ、ヒカルは部屋を飛び出した。台所へ直
行し、冷蔵庫の中を物色すると、メロンパンとフルーツジュースを発見、それを
取り出し、行儀が悪いと叱られるのを覚悟で立ったまま胃袋に収めた。
案の定小言を言い始める母親を諌めるように、ヒカルは軽く手を振る。
「見舞いに行く前に和谷の家に寄る事になったから、ちょっと遅くなるかも」
そのまま台所を出ようとするヒカルを母親がすぐに引き止めた。
「ちょっと、お夕飯はどうするの?」
「うーん、遅くなったらどっかで食って帰ってくる」
「お見舞いに行くんだったら果物か何か買っていきなさいよ」
「えー?」
「当然でしょ!お金はあるの?」
「だいじょーぶ。行ってきまーす!」
勢いよく閉められたドアの向こうはヒカル同様、まだ明るさを失っていなかった。


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剥がれかけたけた壁の側面にある小さくて丸いブザーを恐る恐る押すと、和谷が
ひょこんと顔を出し、照れ笑いを浮かべながらヒカルを出迎えた。
「よ。早かったな」
「時間ないからソッコー飛ばして来た」
「ま、上がれよ」
「う、うん」
きちんと整頓はされているのだが、皮肉な事に何をしても雑然とした印象しか与
えないであろう狭い玄関で、ヒカルはおずおずと靴を脱いだ。そして、緊張の面
持ちで床に足を着ける。
「…公団住宅って初めてだ」
初めて訪れる家の雰囲気に馴染めず、固い表情のままでヒカルが呟く。
「別に変わんないだろ、他の家と。そこの戸開けたらオレの部屋だ」
促されるまま戸口に手をかけ、右側へと押し開ける。和谷の部屋──和谷は家を
出たのだから元部屋と言うべきなのだろうが、ここは長い間主が不在だったにも
かかわらず生活の匂いが残っていて、空き部屋特有の空虚な雰囲気は全く感じら
れない。よく見ると布団一式が取り払われたベッドの上に、束ねられた新聞紙が
山積になっている。新聞だけでなく、空き瓶やトレーといったリサイクル回収品
置き場にもなっているようだった。
それに気付いた和谷が、心底困り果てた顔を見せる。
「やんなっちゃうよな、こういうの。無神経っつうか」
確かに留守中に自分の部屋を物置がわりに使われていたら気分良くないな、とそ
れでもまだ他人事の範疇でヒカルは和谷に頷く。
「だろ?それで親に文句言ったらさ、『嫌なら帰ってくればいいでしょ』の一言
 で片付けられちまったよ」
なんと答えていいのかわからず、ヒカルは曖昧な微笑みを返した。
「ま、オレの事はどうでもいいとして…そこの椅子に座っていいぞ。電話でさ、
 『実家に来い』なんて言ったはいいけど、よく考えたらウチのパソコン、外付
 けしないと見られないんだよ。それで慌ててドライブ借りてきたんだ。さっき
 接続したばっかりだから上手くいくかどうかわかんないけど、大丈夫だと思う」
「ふうん?」
正直、ヒカルは和谷が何を説明してくれているのかさっぱりわからないのだが、
自分の為に無駄な労力を使わせてしまった事はわかるので、それに対して申し訳
ないという気持ちにはなる。
たった一枚のディスクによって、ヒカルも和谷も寄り道をさせられているのだ。
「義高ーッ!」
台所から和谷の母親らしき人の声が聞こえた。呼ばれた息子は少々バツの悪い顔
で母親の立っているであろう位置を軽く睨み、
「ここ押して、ディスクをセットして、また押し込めば勝手に起動するんじゃな
 いか?変化なければオレを呼べよ。──ちょっと行ってくる」
そう簡単に手順を説明し終えると、ヒカルを置いて部屋を出て行った。
「開けて、乗せて、押し込んで、と」
教えられたとおりにすると、ブウゥンと何かが回転する音が聞こえた。
大きな虫が飛び立つ羽音に似ていて、その不気味さにヒカルの肌が瞬間粟立つ。


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「…“Watch Out!”?ってどういう意味だっけ?」
広い液晶画面の中央に二回りほど小さな画面が現れた。そこには黒い画像に赤い
文字で“Watch Out!”と表示されている。
ヒカルは寒くもないのに小さく震える身体を擦りながら、次に飛び出してくるで
あろう未知の映像を待った。
10秒ほど経過した後、画面に変化が訪れた。
さらに一回り小さい枠の中で、何かが動いている。
少しずつ大きくなっていくノイズ混じりの音声。
──自分はこの声を知っている。

小さな画面に目を凝らす。
動いている。誰が?
自分が。──自分が?

机に手をかけ、バックから突き上げられている自分のあられもない姿が鮮明に映
し出されている。背後からシャツの下にまわされた何者かの手によって胸元をま
さぐられ、全身が切なげに甘い息を吐く。快楽の波の中剥き出しになった下半身
はひとりでに勃ち上がり、ビクビクと先端を揺らしながら精を撒き散らしていた。
腰を掴まれ、激しく揺さぶられながら、後ろからのどんな刺激も漏らすまいと恍
惚の表情を浮べては喘ぐ自分。
悪魔の手がヒカルの分身に手を伸ばし、片手で扱き上げる。
『いやああぁッ』
前への刺激にカクンと落ちかけたヒカルの腰をもう片方の手で支えつつ、空いた
手は淫靡な動きを施すのに忙しい。
『あた、ま、─おか、し、─く、なる─ああ──ッ』
汗だくで絶頂を迎えるヒカルの顎が反り返り、細い首筋に血管が浮く様や、額に
張り付いた髪の一本一本さえも克明に記録されているというのに、自分を犯して
いる悪魔の顔はどこにも映っていない。
「進藤、携帯鳴って──」
炭酸のペットボトルとコップを持って部屋に戻ってきた和谷が、鳴り響く携帯に
気付かないヒカルを訝しがり、後ろから画面を覗き込んだ。そして──。
その後とった行動は曖昧な記憶としてしか残っていない。
咄嗟にパソコンの主電源を落とし、取り出したCD−Rを掴んだまま和谷の顔も
見ずに部屋から走って逃げた。和谷とぶつかった際、激しい音を立てて床に落ち
たコップにジュースが入っていたかどうか、それすらもよく憶えていない。
闇雲に走り続け、息の切れたところで立ち止まった。
春の陽気とは対照的に全身が総毛立ち、ヒカルはその場で吐き気と眩暈に襲われ
た。ガードレールに掴まり、眩暈が収まるのを待つ。なんとか呼吸を整えようと
乾いた唇を舐めながら目を閉じた。
怒りのあまり、ディスクを持つ手が小刻みに震えてしまう。怒りだけでなく、犯
人である越智の意図がつかめぬ恐怖に後押しされ、ヒカルは渾身の力を込めて悪
魔のディスクを折り曲げた。それでも体の震えは止まらなかった。


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ヒカルは山手線に揺られていた。
何処へ行くあてがあるわけでもない、ただ気付いた時にはすでに改札口を抜けた
後だった。
もしかしたら無意識の状態でさえも、ヒカルの体はアキラの家へ向かおうとして
いたのかも知れない。アキラの家は行こうと思えば今からでも遅くはない距離に
ある。九つ先の駅を下りて、乗り換えればいいだけの話だ。
だがヒカルはどの駅でも下車せず、延々山手線に揺られていた。
一周めは帰宅ラッシュと重なり、立ったまま車内が空くのを待った。二周目に今
の場所を確保し、少し広げた膝の上で祈るように腕を組んだ。その項垂れた姿勢
のままで周回を終え、さらに一度も顔を上げることなく三周目に突入するところ
だった。
体の震えはとうの昔に収まっていたが、どんよりとした感情は時間の経過と共に
暗さを増してゆく。折り曲げたディスクは捨てきれず、いまだリュックの中だ。
どんなに懸命に考えても、こんな嫌がらせをされる理由が思いつかない。何故な
らあの関係は、ちゃんとした契約の上に成り立っていたもので、大きな声では言
えないながらもそれなりに理由が存在していた。
自分と越智を繋ぎとめていた“写真”は毎回その場で全て破棄してきたし、元々
私怨絡みで始まった関係になど、越智の方にも未練はないはずだ。
それなのに、越智のこの行動はまるで──。

ヒカルがまだアキラに怯え、アキラもヒカルにそっと触れただけで声も交さず別
れたあの日、偶然居合わせた越智は二人のやりとりの一部始終を目撃していたら
しく、翌日、棋院のトイレでいきなり『進藤、塔矢とどういう関係?』と声を掛
けてきた。それが全ての始まりだった。
『今度ボクの家でプロ一周年記念のパーティーをするんだけど、同期生も誘えっ
 ておじいちゃんが煩いんだよ。来てくれるよね』
そう強く誘われると断る理由もなかなか浮ばず、結局和谷と一緒に出掛け、用事
のある和谷は途中で退席した。その後、ヒカルの身に悲劇が起こった。
確か、渡された飲み物を飲んだあと急に意識が遠くなり、その場に倒れたのだ。
次に目覚めた時は越智のベッドの上に横たわっていた。しかも全裸で。
越智は旧式のポラロイドカメラを片手に椅子に腰掛け、ヒカルが目を覚ますのを
息を殺しながら待っていた。
2枚、失敗したと言っていた。それでもその手には、ヒカルの全裸写真が残り8枚
握られていた。
『これ、もう製造中止になったカメラなんだ。フィルムももうこれが最後の10枚。
 使い納めとして進藤を撮らせてもらった──この写真、どうして欲しい?』
越智はヒカルを嘲るでもなく、淡々とした口調で理不尽な要求を突きつけてきた。
その最後に、アキラの名前を出されたのだ。
『恨むのならボクじゃなくて、塔谷アキラを恨むんだね。この写真見せたら、ア
 イツ、どんな反応するだろう』
その一言に縛られ、その夜からヒカルは──。
「………ッ」
終わったはずの出来事とはいえ、あまりの悔しさに涙が溢れてくる。涙はとめど
なく流れ落ち、ヒカルの腿を濡らしていった。



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