失着点・展界編 66 - 70


(66)
最初は軽く触れ合わせるように、そして次第に互いに貪りあうように
舌を絡め合わせる。もう随分長い間離れていたような気がした。
久し振りのアキラの唇は、どんな高価な果実よりも甘くて柔らかな気がした。
「…今夜…来てくれるよね…。」
唇が離れた僅かな合間にそう言って、ヒカルの頬を両手で挟んで更に深く
結びつこうとして来る。アキラの勢いにじりじりとヒカルが後退し、
階段の屋上に上がった部分の建物の壁に背中が押し当たる。
「ま、…待って…」
「あ、ごめん…」
アキラは自分が押してヒカルがどこか痛がったのかと思い、慌てて離れた。
「イベントの事とか、話したい事がたくさんあるんだ。向こう式の戦略とか、
面白かった。」
ヒカルは壁にもたれたまま、そう話すアキラを見つめた。アキラもまた、
ヒカルを真直ぐ見つめている。アキラの瞳は前へ前へと先へ辿り着こうとする
光で溢れている。できればその光を損ないたく無い。
「…今夜は、行けない…。」
「…え?」
「…今度の手合いが終わるまでは、お前のとこに行かない。」
「何故なんだ、進藤。」
納得がいかないという表情をするアキラに対し、ヒカルは使う言葉に迷った。
「だ、大事な手合いだからだよ。オレ、もう絶対落としたくないし…」
「だったらボクと打てばいい。何局でもつき合うよ。」
「そうじゃなくて…」


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「…進藤?」
アキラの表情が不安げに陰る。ヒカルは無理にでも声を張り上げ説明した。
「こ、今度のお前の相手、和谷っていうんだけど、スゲー真剣なんだ。絶対
お前に勝つって言ってさ、オレ、院生の時からずーっとそいつと友達でさ、」
「和谷…」
アキラが名前から顔を思いだそうとしているようだったが、多分覚えては
いないのだろうとヒカルは思った。
「…とにかく、そいつがそれだけ真剣なのにさ、オレ達が…、その、まあ、
わかるだろう?」
ヒカルが顔を赤くしてそう言うとアキラもつられるように赤くなった。
「…そうか…。ごめん、ボクは自分の事ばっかり…」
「塔矢が謝る事ないよ。…とにかく、大手合いが済んだら、二人でゆっくり
話をしよう…。」
アキラの肩に手を置き、なだめるようにそれだけ話す。
「いけない、そろそろ戻らないと…。」
ヒカルは髪をかきあげると、階段に向かって歩き出した。そんなヒカルの
仕草を見ていて、何気にアキラが尋ねた。
「…進藤、何かあった…?」
「え、…どうして?」
ヒカルは心の動揺を隠して聞き返した。
「少し、大人っぽくなったみたいに感じる。」
アキラに真面目な顔でそう言われ、「アハッ」と笑顔をして見せる。
…大手合いさえ終われば。その事だけが今のヒカルの頭の中にあった。


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階段を降りて建物の外までアキラを見送った。
「会えるかどうかも分からないのに、あちこちの碁会所を探し回ったんだ
ろうな…。」
声がして、ヒカルが振り返ると伊角が立っていた。
「…君たちにはかなわないよ。…余計な事をしてすまなかった。」
「伊角さん…」
「オレももう帰るよ。もう付きまとったりしないから安心してくれ。
それじゃあ、手合いの日に、またな。」
「う、うん…」
伊角に軽く笑顔で手を振られ、ヒカルもつられて笑顔で手を振る。
「…たとえお前に何があっても、塔矢はお前を信じ続けるんだろうな…。」
「え…?」
伊角が最後に何を言ったかはヒカルには良く聞き取れなかった。
少し胸に引っ掛かるような気がしたが、ヒカルは碁会所に戻った。
アキラと会わないと決めた以上、気持ちを紛らすには打つしかなかった。
大手合いの当日、ヒカルはギリギリまで棋院会館に入らなかった。
アキラの前で、和谷と顔を合わせるのを避けたかった。
アキラは普段通りに早めに到着していた。和谷というその相手に、大局前に
挨拶をしておくのもいいかなと考えていた。
玄関に入って直ぐ、アキラは突き刺すような視線を感じて顔をあげた。
会場の入り口脇の壁にもたれて腕組みをし、じっとこちらを睨み据えている
少年がいる。その顔には今までに何度か会った覚えはあった。
「彼が…和谷…か。」


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靴を脱いで上がり、アキラは1歩1歩和谷に向かって歩いて行った。
そして直ぐに、和谷の凄まじい程の戦意を感じ取った。殺気と言ってもいい。
…何だ?こいつ…、
うかつに近寄ってはならない、アキラの中の本能がそう警告している。
距離をおいて二人はしばらく睨み合っていた。次々とやって来る対局者達が
怪訝そうに見やりながら対局室に入って行く。
その人の波が途切れ、その場に二人きりになった時、アキラから口を開いた。
「…和谷くんだよね。プロ試験の時とか今までも何度か会っているけど、
…改めて、今日はよろしく。」
和谷は返事をしなかった。ただじっとアキラを睨み据えている。
「…宣戦布告と受け取っておくよ。」
アキラが和谷の前を通り過ぎ対局室に向かおうとした時、和谷の口が動いた。
「…しばらく進藤と寝ていないだろう。」
アキラの足が止まった。
「…オレがあいつに言ったんだよ。もう塔矢アキラとは寝るなって。」
アキラはしばらくその場に立ったまま動かなかった。その背に和谷は続ける。
「…おまえに進藤は渡さない…。」
アキラがゆっくりと振り返り、和谷を睨みすえる。
その時ヒカルが玄関のところに入って来た。ヒカルは睨み合う二人に
気がついて慌てて身を潜めた。
「遅かったな、進藤。」
玄関脇のところで二人を離れて見ていた伊角が立っていた。
「…始まるぞ。」


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伊角はヒカルの腕をとると二人のいるところに引っ張って行く。
「い、伊角さん…!」
ヒカルは焦った。アキラと和谷がヒカルの方を振り向く。
「…進藤、」
和谷がヒカルの名を呼んだ。だが、ヒカルは和谷を見ず、アキラを見つめた。
アキラは何も言わなかった。ただ、「わかっている」というように穏やかな
表情をヒカルに見せ、対局室に入って行った。その二人の様子に和谷は唇を
噛み締める。明いていた4つの席が埋まって開始のブザーが鳴った。
それぞれが頭を下げ合って挨拶する中で、アキラと和谷だけは睨み合った
ままだった。
「…なんだかあそこ、すげえな…。」
二人のぴりぴりしたムードは他の対局者達にも伝わっていた。
ヒカルは激しく動揺していたが、黒の先番となり、息を吸って決意を
したように対局を開始する。相手が驚く程のっけからの早碁で進める。
おそらくアキラは容赦しない。だとすれば結果はもう明らかなのだ。
先番を取った和谷は包帯を外した傷だらけの右手で石を置いていた。
そんなものがアキラに対してなんの効果も持たない事は分かっていた。
決意の表示である。それに対するアキラの応手は強烈だった。
パンッと、決して大きい音と言う訳では無いのに対局室中に突き刺さる、
凛とした響き。アキラを知っている誰もが元名人を連想した。
その音は早碁のリズムで進められ、音の響きに全くの躊躇がない。
…塔矢アキラが、本気だ。
そこにいた誰もがそう感じた。



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