とびら 第五章 66 - 70
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「俺はな、おまえと対局できることを楽しみにしていた。だが今はそんな気にはなれない。
碁は手談ともいう。言葉はなくとも、その一手で通じることが出来るものだ。だが身勝手な
おまえと、いったいどんな手談ができるというんだ?」
緒方は今はっきりとヒカルとは打ちたくないと言っているのだ。
碁界のトップ棋士の言葉はヒカルの胸に突き刺さった。
「緒方先生……」
思わずヒカルはすがるように緒方のほうへ手を伸ばしていた。
もう少しで緒方の身体に触れそうな指先は、しかし途中でとまった。
緒方が汚らしいものでも見るような目つきをしたからだ。
「二度とアキラくんには近付かないと約束しろ。そしてあの少年一人だけにしろ。足りなか
ったら俺がいくらでも抱いてやる」
揶揄するような口調に、精一杯の虚勢を張ってヒカルは言った。
「そんなこと言って、たんに緒方先生もオレとしたいだけなんじゃないの? それにオレの
せいで塔矢はつぶれるって言うけど、そんなことにはならないよ、絶対」
「アキラくんのおまえへの入れ込みを見ていたら、そうは思えんがな」
しぶい顔をする緒方に、ヒカルは笑った。もう自棄だった。
「緒方先生、塔矢はいつまでも小さいままじゃないよ。そんなふうに言ってると、あいつに
足元をすくわれるよ?」
「まだそのつもりはない」
緒方の瞳の色が深くなった気がした。勝負師としての緒方にヒカルは純粋に惹かれた。
「ぐっ」
乱暴に床に押し倒され、ヒカルは息が詰まった。
首に強い力がかかる。緒方が両手で締めてきたのだ。
ヒカルは逃げようとした。だがのしかかられているのでそれは叶わなかった。
無理やり唇をふさがれた。
先ほどの巧みなキスとはまったく違っていた。それは荒々しく、余裕のないものだった。
それなのにヒカルの身体の奥が熱くなってくる。
夢中で緒方の胸をこぶしで叩いたが、びくともしない。
緒方の手がヒカルの身体をまさぐりはじめる。
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ヒカルは緒方の舌に噛みついた。血の味が瞬時に口内に広がった。
緒方は顔をしかめたが、キスをやめようとはしなかった。
もう一度ヒカルは噛もうとしたが、その前に緒方が指を歯のあいだに差し入れてきた。
舌をなでられる。煙草の味がした。
緒方の、味だ。
「っ……やだ!」
ヒカルは口の中の指を強く噛んだが、それは無駄なことだった。
指と舌が口腔を蹂躙する。頭の中が揺らめいてくる。
「っぁん……」
緒方によってヒカルの中の情欲という名の熱が引きずり出される。
淫乱だと、色情狂だと、和谷とアキラの声が聞こえてくる。
二人の言うように、本当に自分は節操なしかもしれない。
「昨日あれだけしたくせに、今朝もしたくせに、おまえはまだ足りないのか?」
何もかも見通しているかのように言う。
緒方はぼたんを引きちぎるような勢いで外して胸をはだけさせた。
「緒方先生! やめてくれよっ」
ヒカルの懇願にも緒方は冷ややかな目線で答えるだけだった。
愛撫―――と呼べるかどうかはわからないが―――が続けられる。
だが不意にそれがやんだ。緒方の手がヒカルの股間のふくらみに接したときだった。
緒方は躊躇していた。
たしかに緒方は経験豊富かもしれない。
だがそれでも男とセックスをしたことはないのだろうとヒカルは察した。
和谷とアキラを思い出した。二人とも初めてでも、自分のペニスに触れてきた。
異性との性行為をしたことがなかったからこそ、それができたのかもしれない。
だがヒカルはやはり、緒方が何と言おうと今はこの二人なのだと思った。
「緒方先生、離れてよ」
ヒカルが緒方の肩をつかみ、押しやろうとした、その時。
「まったく、指導碁を頼まれたんですが、断わってもしつこくて……」
障子が開かれ、アキラが入ってきた。言葉はヒカルと緒方を見たとたんに途切れた。
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アキラは驚愕した顔をしていた。
ヒカルはアキラに自分たちがどう見えるかを想像して慌てた。
畳にヒカルは押し倒され、その上に緒方が覆いかぶさっている。緒方の手はヒカルの胸元と
下肢にある。それだけでも都合の悪い状況であるのに、ヒカルの手が緒方の肩へとやられて
いる。まるで行為を受け入れているかのようだ。
「塔矢、これは……っ」
アキラが近寄った次の瞬間、ヒカルにかかっていた圧力が消えた。
乱暴に腕を引っ張られ、ヒカルは痛みでうめいた。
気付くとアキラが自分を抱きしめていた。
「何をしていたのですかっ!」
アキラに突き飛ばされた緒方が身体を起こした。
「別に、きみの見た通りのことだよ」
緒方のその返答に、アキラの気がますます荒々しくなっていくのがわかった。
ヒカルはアキラが怖くて、その顔を見る気にはとてもなれなかった。
「真面目に答えてください。どこまで進藤にしたんですか」
「キスだけだよ」
何でもないことのように緒方は言った。しかしアキラの形相は凄まじくなっていく。
そんなアキラを見て、緒方はおかしそうに笑った。
「アキラくん、たかがキスぐらいでそんなに怒ることはないだろう」
「たかがですって? 緒方さんにとってはそうでも、ボクにとっては違います。進藤が好き
だから、誰よりも好きだから、あなたが軽い気持ちでキスをするのは許せません」
「本気なら許してくれるのか?」
少しも本気ではない口調に、アキラはかえって逆上したようだ。
「許すはずないでしょう!」
アキラが怒鳴った。その頬は紅潮している。
「まったく、こんなことくらいで取り乱しているようでは、今度の対局が思いやられるな。
進藤、これでもアキラくんはきみにつぶされないと言えるのか?」
いきなり呼びかけられ、ヒカルは反射的に身をすくませた。
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「アキラくん、進藤とは切れろ」
「何であなたにそんなことを言われなくてはならないんだ!!」
絶対に離さないと言うように、アキラはヒカルの頭を抱え込む手に力を入れる。
アキラの腕にさえぎられて緒方の顔を見ることができない。だから緒方が笑い出したとき、
ヒカルはとても驚いた。顔をずらして隙間から様子をうかがう。
緒方は愉快そうにヒカルを見ていた。
「きみは進藤を一途に思っているようだが、そいつは違うんだぜ」
「そんなことは緒方さんに関係ない」
緒方は眼鏡をかけなおすと二、三度しばたいた。
「そいつはオレのキスにずいぶん素直に応えてきた」
まだくっきりと歯型が浮かんでいる人差し指と中指を、見せつけるようにひらめかせる。
「それにうまかった。こんなキスをされたら、経験のない若い者はすぐに夢中になるだろう。
アキラくん、きみはいいようにたぶらかされているんだよ」
「そんなことありません!」
「えてして、たぶらかされている者は自分がたぶかされていることに気付かないものだよ。
きみもそうだ、アキラくん。本当にどうしようもないことだ。そしてさらに悪いことには、
たぶらかしている者自身に自覚がないときている。なあ、進藤?」
ヒカルはぎゅっと目を閉じた。頭の中で無数の羽虫が飛んでいるような気がした。
緒方の次の言葉が怖い。
「アキラくん、進藤はオレがキスしても触っても、本当の意味では嫌がらなかったんだぜ。
もし本気で進藤が暴れたら俺はすぐにやめるつもりだった。けどこいつはしなかった」
ヒカルは自分が嫌がったと、抵抗したと言おうとした。しかし途端に自信がなくなった。
前にヒカルは和谷のアパートの男に襲われた。そのときは死に物狂いだった。
絶対に嫌だと思った。だが緒方の前での自分はそこまで必死にはならなかった。
知っている人だからとか、緒方が巧みだったからとかは、言い訳にしかならない。
もし緒方が躊躇しなければ、アキラが来なければ、自分はセックスしていただろう。
緒方としたいとは露ほども思わない。誰でもいいわけでは決してない。
しかしそうだとしても、できるのだ。
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沈黙が自分を責めている気がした。
自分を抱きしめているアキラの胸中を思って、ヒカルはますます罪悪感にさいなまれた。
「……緒方さん、もう帰ってください」
ようやくアキラが言った。とても暗い声だった。
緒方は息を吐いて、煙草の箱を取り出した。だが中は空だった。するとまたため息をつき、
それを握りつぶして座卓に放った。
「今日のところはそうするよ。しかしアキラくん、俺の言ったことをよく考えておくんだぜ。
進藤にたぶらかされているということに早く気付かないと手遅れになる」
「早く帰れ!!」
「進藤、おまえもよく考えろ」
緒方は鼻で笑うと部屋を出て行った。足音が遠のいていく。
玄関を開け閉めする音が聞こえた。そしてようやくアキラはヒカルの頭から手を離した。
しかしヒカルは動けず、アキラの胸に顔を押し付けていた。
「進藤、いつまでそんな格好をしている気だ」
「え? ああ、うん……」
ヒカルは急いでシャツのぼたんを嵌めていった。それをアキラが凝視している。
すべてを嵌め終わると、アキラが再びヒカルを引き寄せた。そして一つずつまた外し始めた。
せっかく嵌めたばかりなのに、何をするのだとヒカルは言おうとした。
だがアキラの怒りと失意が混じったような表情を見ると、言葉は消えてしまった。
「……緒方さんと、しようと思ったのか?」
「そんなわけないだろ!」
「でもボクが入ってきたとき、きみの手は緒方さんの……」
そこで言葉を切ると、おもむろに唇をふさいできた。
すぐに舌が侵入し、口の中のあらゆる粘膜を刺激していく。ヒカルもアキラの口腔へと舌を
すべらせた。そして驚いた。そこはすっかり渇いており、唾液が一滴もなかったからだ。
音を立ててアキラはヒカルの中を吸い上げる。ヒカルの唾液がアキラの中を湿らせる。
合わさったところから雫がこぼれおちてくる。
唇を離すと、アキラはヒカルを睨んできた。
「……煙草の味がする」
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