とびら 第六章 66 - 70


(66)
青ざめた顔のまま、佐為は立ち上がった。
しかしそのまま動こうとしない。
室内の空気は凍りついたように重く、硬い。
誰もなにも言わない。佐為が帝のほうにその顔を向けた。
佐為の目はすがるようなそれではなく、どこまでも悲しみに満ちていた。
帝は一言も言葉を発しなかった。ヒカルは帝をにらみつけた。
(あんた佐為に碁を教わってたんだろ!) 
声が出なかった。それでもかまわずにヒカルは叫んだ。 
(ならわかるはずだ!! こいつがそんな汚いマネをするはずがないって! こいつは碁が
好きでしかたがないやつなんだぞ!? あんた、いったい今までなにを見てきたんだっ!)
手を横に払った。すると触れてもいないのに御簾がまくれあがった。
だが帝は微動だにしない。帝がぱちん、と小さく扇を鳴らすと、側にいた女がすぐにやって
来て、乱れた御簾をととのえた。
佐為はひきずるような足取りで、部屋を出た。


(67)
通り過ぎるすだれのむこうは静かだった。からかうように差し出される扇もない。
すれちがう者も佐為を無視する。
まるでいきなり世界が変わったかのようだ。
(佐為! 佐為!)
ヒカルはわなないた。その名を呼びつづける。
水音がした。
瞬時に全身の肌が粟立った。
再びヒカルは裸になっていた。だが気にするゆとりなどない。
ヒカルは佐為のまえに両手を広げて立ちふさがった。後ろには川がある。
自分の姿は見えていないのはわかっている。それでもせずにはいられなかった。
(佐為、だめだ。絶対にだめだ。頼むから……)
佐為の暗く沈んだまみが、ヒカルをとらえた。
「ヒカル」
その唇が自分の名をつむいだ。ヒカルは衝撃を受けた。
視界がぼやける。気付くと頬に涙が流れていた。
「佐為」
声が出る。これは夢のはずではなかったのか。それとも現実なのか。


(68)
佐為がヒカルのわきを抜けた。追いかけようとして、身体がまるで重い枷をつけられている
かのように、動かないことに気付いた。
踏み出すと全身が痛んだ。腰に力が入らない。
そんな自分を気にとめず、佐為はさらに川岸に近付く。ヒカルは身体を叱りつけた。
足元はぬめっており、すべりそうになる。
佐為はその身を川のなかへと進めていった。
「佐為!」
ヒカルも転がるようにして川のなかに入った。
手足がしびれる。ものすごい冷たさである。それでもかきわけるようにして急いで追う。
佐為の腰がすでに水のなかに沈んでいた。
「死ぬなよ、佐為! 死んでどうするんだ!」
「都を追い出された私に、生きる術はありません」
「そんなことを言うなよ! 神の一手だって極めてないんだろう!?」
その台詞は佐為の萎えた気持ちを奮い立たせると思った。
だが佐為は何もかもをあきらめたような表情で、ただかぶりをゆるゆると振るだけだった。


(69)
水がしみる。体温が急速に奪われていく。
だがヒカルの心を冷たくさせたのは、水などではなかった。
佐為のどこまでも静かな声が、ヒカルの耳にひびく。
「どうやって極めるというのです? 私が碁をけがしたと、みなが思っています。もう誰も
私と打たない。一手目を置いても、二手目は返ってこない。それは打てないことと同じです。
それならばいっそ、この身を儚くしてしまいたい」
言葉を失ったヒカルを残して、また佐為は歩みはじめた。
絶望がその身をひたしているのがわかる。
こんな気持ちで佐為は死んだのか。誰にもかえりみられず、ただ一人で。
囲碁への情熱も失くして――――
「おまえが死ぬなら、オレも死ぬ」
驚いたように佐為はヒカルを振り返る。しばし二人は見つめあった。
なにも言わない佐為にヒカルは抱きついた。
しかし手ごたえはなく、水がヒカルを受け止めた。
ヒカルは目を閉じた。


(70)
身体のなかの空気が音をたてて外に出ていく。
心は静かだった。だれを恨むでもなく、ただ寂寞とした思いだけがあった。
(オレがいる。おまえにだれもいなくても、オレだけはいる。オレたちはずっと一緒だった。
オレは佐為だけを見てきたんだ。オレは幸せだ。佐為と死ねるなら、オレは……)

  死にたくない。

ヒカルは目をひらいた。
"死にたくない"―――火がともったように、それはヒカルの心を熱くさせた。
水が身体のなかに浸入してくる。ヒカルはそれにあらがった。

  いやだ、死にたくない。このまま死にたくない。

ヒカルの感情に、だれかのものが重なる。

――――私はまだ、神の一手を極めていない!



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