誘惑 第三部 67
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交わす言葉はない。
白と黒の石が、一つ、また一つ、会話を交わすように置かれていく。
ある時は自陣を守り、別の一手で相手に切り込み、そしてまたある時は置かれた石の意図を探る
ように、問いを投げかけるように、また一つ、石を置く。
時折窓の外から聞こえていたはずの車の音も、子供の声も、室内のエアコンのうなりも、聞こえ
なくなる。
十九路の盤とそこに向かい合う二者の世界が濃密に凝縮され、それらを囲う現実が薄れていく。
ただ、互いの打つ一手一手が、向かい合う相手と自分とで作り上げられていく盤面だけが世界の
全てになる。
たった二人で、十九路の盤面と白と黒の石から作り上げる宇宙。
そこには誰も入ってくる事はできない。
ボクはキミを探り、キミはボクの手を読む。探りあいながら、ヨミ合いながら、ボクたちは誰にも辿
りつけない深みへと沈んでいく。
打っているからこそわかる。ボクにしかわからない。キミにしか理解できない。この世界の深みは。
そうやって作られていく自分を含めたこの小宇宙を、はるか上方から見下ろしていた意識が、盤上
の一点に吸い寄せられる。同時に、精密な計算をめまぐるしく繰り返していたアキラの頭脳が、ある
一筋の路に辿りつく。
何かに操られるように指が白石を一つ挟み、そこを目指して動く。
乖離していた意識が指先で一点に集束する。
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