誘惑 第三部 67 - 68
(67)
交わす言葉はない。
白と黒の石が、一つ、また一つ、会話を交わすように置かれていく。
ある時は自陣を守り、別の一手で相手に切り込み、そしてまたある時は置かれた石の意図を探る
ように、問いを投げかけるように、また一つ、石を置く。
時折窓の外から聞こえていたはずの車の音も、子供の声も、室内のエアコンのうなりも、聞こえ
なくなる。
十九路の盤とそこに向かい合う二者の世界が濃密に凝縮され、それらを囲う現実が薄れていく。
ただ、互いの打つ一手一手が、向かい合う相手と自分とで作り上げられていく盤面だけが世界の
全てになる。
たった二人で、十九路の盤面と白と黒の石から作り上げる宇宙。
そこには誰も入ってくる事はできない。
ボクはキミを探り、キミはボクの手を読む。探りあいながら、ヨミ合いながら、ボクたちは誰にも辿
りつけない深みへと沈んでいく。
打っているからこそわかる。ボクにしかわからない。キミにしか理解できない。この世界の深みは。
そうやって作られていく自分を含めたこの小宇宙を、はるか上方から見下ろしていた意識が、盤上
の一点に吸い寄せられる。同時に、精密な計算をめまぐるしく繰り返していたアキラの頭脳が、ある
一筋の路に辿りつく。
何かに操られるように指が白石を一つ挟み、そこを目指して動く。
乖離していた意識が指先で一点に集束する。
(68)
静かに置かれた石に、ヒカルは息を飲んだ。
思わず顔を上げると、それに気付いて盤面を睨んでいたアキラがゆっくりと顔を上げ、鋭い視線
が真っ直ぐにヒカルを見た。
その眼差しに、心臓を貫かれたような気がした。
真っ黒な瞳が放つ鋭い光に、ヒカルの背に戦慄が走る。
だがヒカルも負けじと目に力を込めてアキラを見返した。
そう簡単にやられるもんか。
おまえがそうやって攻めて来るんなら、オレだって。
そうして返したヒカルの手に、アキラの片眉が僅かに動き、白い能面のようだった表情が揺らぎ、
一瞬、その唇は笑みの形を形作る。
そして次の瞬間にはまた面を引き締め、黒い瞳から発せられる鋭い光は更に苛烈さを増す。
塔矢が、大きく見える。
飲まれちゃいけない。これ以上、圧されちゃいけない。
でも。
息をするのも苦しい。まるで塔矢の周りで空気が、凝縮されてるみたいだ。
まだ諦めない。どこかにあるはずだ。まだ、攻め入る隙が。
諦めたくない。負けたくない。このまま圧倒的な塔矢の力の前にむざむざと敗れてしまいたくない。
ヒカルのこめかみから汗が滲み出る。強く噛み締めた奥歯が、ギリ、と音を立てる。
そしてアキラの手は更に容赦なくヒカルを攻め立てる。
「…ありません。」
ついにヒカルは苦しげに敗北の宣言を搾り出す。
じっとヒカルを見据えていたアキラは厳しい表情のまま息を止めてその言葉を受け止め、数瞬の後
にゆっくりと息を吐き出し、それからやっとその顔を和らげた。
そしてもう一度軽く深呼吸するとアキラは頬に小さな笑みを浮かべながら目を閉じて頭を下げた。
「ありがとうございました。」
アキラの声にヒカルもやっと呼吸を取り戻し、同じように頭を下げる。
「ありがとうございました。」
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