誘惑 第三部 68


(68)
静かに置かれた石に、ヒカルは息を飲んだ。
思わず顔を上げると、それに気付いて盤面を睨んでいたアキラがゆっくりと顔を上げ、鋭い視線
が真っ直ぐにヒカルを見た。
その眼差しに、心臓を貫かれたような気がした。
真っ黒な瞳が放つ鋭い光に、ヒカルの背に戦慄が走る。
だがヒカルも負けじと目に力を込めてアキラを見返した。

そう簡単にやられるもんか。
おまえがそうやって攻めて来るんなら、オレだって。

そうして返したヒカルの手に、アキラの片眉が僅かに動き、白い能面のようだった表情が揺らぎ、
一瞬、その唇は笑みの形を形作る。
そして次の瞬間にはまた面を引き締め、黒い瞳から発せられる鋭い光は更に苛烈さを増す。

塔矢が、大きく見える。
飲まれちゃいけない。これ以上、圧されちゃいけない。
でも。
息をするのも苦しい。まるで塔矢の周りで空気が、凝縮されてるみたいだ。
まだ諦めない。どこかにあるはずだ。まだ、攻め入る隙が。
諦めたくない。負けたくない。このまま圧倒的な塔矢の力の前にむざむざと敗れてしまいたくない。
ヒカルのこめかみから汗が滲み出る。強く噛み締めた奥歯が、ギリ、と音を立てる。
そしてアキラの手は更に容赦なくヒカルを攻め立てる。

「…ありません。」
ついにヒカルは苦しげに敗北の宣言を搾り出す。
じっとヒカルを見据えていたアキラは厳しい表情のまま息を止めてその言葉を受け止め、数瞬の後
にゆっくりと息を吐き出し、それからやっとその顔を和らげた。
そしてもう一度軽く深呼吸するとアキラは頬に小さな笑みを浮かべながら目を閉じて頭を下げた。
「ありがとうございました。」
アキラの声にヒカルもやっと呼吸を取り戻し、同じように頭を下げる。
「ありがとうございました。」



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