落日 7 - 11
(7)
湯に浸した布で彼の身体についた汚れを丁寧にふき取ってやり、衣を着せ掛けてやった。
そうしてやっとほっと一息ついて、傍らで眠る少年の顔を覗きこんだ。
先ほどよりは安らかな顔で眠りについている彼は、やはりしかし、以前見知った、少年検非違使とは別の
人間のように思えた。
なぜ、と自らに問いかけながら彼の柔らかな、特徴のある前髪を梳く。
彼をそういった対象として見たことは無かったはずだ。
それなのになぜ、こんな事をしてしまったのか。
いや。
彼の儚げな笑みを見てズキリと痛んだ胸の痛みを思い出す。
あの痛みはなんだったのか。
窶れてこけた頬が痛々しい。長い睫毛の下に涙が滲んでいるのに気付いて、胸が締め付けられるように
痛んだ。多分、いやきっと確実に、自分を「彼」と混同しているのだろう。知らなかった。気付かなかった。
彼らがそういう関係であった事に。そうであればこそ、彼のこの憔悴も納得が行くというものだ。
可哀想に。そう思った。
だからこれは同情だ。逝ってしまった人を思って泣く子供が可哀想で、彼を慰めてやっただけだ。
いや、違う。
同情などではない、断じて。
ではこの感情は何だ?
(8)
あの日、彼を抱くまでは、ただ純粋に彼の身体を心配して、どうしようもなく気になって、それで、ここへ
足を運んだ。けれど今は。離れていると、彼の縋るような眼差しが、しがみ付く腕の力が、自分を呼ぶ。
甘く切ない喘ぎ声が耳に絡み付いて離れない。
彼を慰めてやりたいとか、涙を拭いてやりたいとか、そんな広い気持ちではない。ただ彼が欲しかった。
けれど彼を抱いた後は、必ずいつも後悔と苦悩に包まれる。抱くべきではなかったと、苦い思いが胸の
内に広がる。抱いてしまえば尚益々、彼の求めているのが自分ではない事がわかって、虚しくなる。
彼の身体だけでなく、心まで欲しくなって、それなのに抱けば抱くほど、彼の心は遠く離れていくように
感じてしまう。
もうやめよう。何度もそう思った。
もうやめよう。二度とここへは来るまい。
けれど、そう決心はしたものの、二日もたてば、もしかして彼はまた泣いているのではないか、せめて
顔だけでも見たい、そう思って足は勝手に自分を運んでしまい、顔を見てしまえばやはり我慢できずに
抱いてしまう。
心のどこかに、こうして抱いていればいつかは自分を見てくれるのではないか、それに少なくとも彼は
自分を拒んではいない。むしろ求めているのは彼の方で、だからつい、自分は期待してしまうのだ。
こんな関係は自分にとっても彼にとっても良くないのではないか。そういった疑問は常にあるのに、彼の
前に立つとちゃちな決心など脆くも崩れ去ってしまう。流され易い自分が呪わしい。
いつでも自分はこうして悩みばかりだ。
苦悩を抱えながらも若き青年貴族、伊角信輔は、そっと目の前の少年を抱き寄せ、頬を包みこんで、
清らかな額にくちづけを落とした。
(9)
前はこんなじゃなかったのに。
眩しい程の夏の日差しのような明るい笑顔だったのに、「彼」を失ってからというもの、彼は変わって
しまった。
振り仰ぐように空を見上げる彼は、秋の空気のように、悲しいまでの透明感を漂わせていて、目を離
したら消えてしまいそうだった。衝動的に彼の身体をきつく抱きしめた。抱きしめたことでわかる肩の
薄さに、腰の細さに、甘く香る彼の匂いに、頬に触れる柔らかな髪に、眩暈がした。小さな声で名を
呼ぶと、顔をあげてこちらを見た。涙で潤んだ大きな瞳と、小さく震えている薄紅色の唇に己の身体
の熱が上がる。そのまま唇を奪いながら彼の細い身体を探ろうと手を動かした。かれど彼は嫌がる
そぶりは無く、むしろそれを待っていたかのように抱き返された。
衣の袷を広げ、唇を落とすと、微かに甘い息が漏れる。それだけでもう夢中になった。多分、乱暴に、
性急に走ってしまった手に、彼は容易に身体を開いた。閉ざされた奥の門を乱暴にこじ開け、押し
入っても、それを待ち望んでいたように甘い悲鳴を上げながらしがみ付いてきた。
正直、戸惑ったのも事実だ。
けれど、ああ、やっぱり、とも思った。
やはり「彼」とはそういう関係だったのか。
そんなものは、「彼」が彼を見る優しく穏やかな瞳を、彼が「彼」を見上げる嬉しそうな幸せそうな瞳を
見れば、二人の絆は、二人がお互いを大切に思い合っているのは、誰の目にも明らかだった。
そしてそれが事実として確認されれば尚の事、今の彼の状態に理由がつく。
だがそんな事はもうどうでもいい。「彼」はもういないのだから。
いない人のことをいつまで思っていても仕方がない。そんな風に考えた。
弱みに付け込んで、という意識も無いではなかったが、そんな事を気にしてどうする、何と言っても
彼は自分を受け入れてくれているではないか、と乱暴に片付けてしまった。
(10)
重なり合った体の熱が上がり、息が荒くなる。
細く華奢な身体はそれでもその中に若い熱と靭さを持っており、同じく若い性をぶつけてもそのまま
受け止め、受け入れてくれる。引き抜き、突き上げる力に彼は強くしがみ付きながらも、悦びの声を
あげる。その声に、夢中になった。動きはしだいに激しくなり、彼の名前を呼びながら奥深くまで突き
入れると、二人同時に到達した。
快楽の余韻に痙攣する彼の身体をそっと抱きしめると、急に腕の中の存在がとても愛おしいものに思
えてくる。最初は彼の儚げな様子に心を奪われ、衝動的に抱きしめてしまって火がついたのだと思って
いたが、こうしていると、実はもうずっと、彼をこうしたかったのだという事に気付く。
小さな声で彼の名を呼ぶと、震える手が背に回され、弱々しい力で抱きしめられた。胸が震えそうになり
ながら彼の目蓋にくちづけを落とそうとした時、可憐な唇から弱い声が漏れて、はっと息を飲んでしまった。
半ば気付いていた事を、こんなふうにして思い知らされるのか。
こうして抱いているのは自分なのに、それでも「彼」の名を呼ぶのか。
それとも、彼は今自分を抱いているのが誰なのか、わかっていないのではないか?「彼」に抱かれている
つもりなのではないか?だから、あんなに、こちらが途惑うほどに積極的に身体を開いたのか?
気付かされてしまった事実に、呆然とする。
それでも。
それでも、と頭を振り、絶望を衝撃を追いやろうとする。そんな事はいい。わかっていた事じゃないか。
そう、今は、まだ「彼」を思っているのかもしれないけれど、それでも今抱いているのは自分なのだから、
時間が経てばいつか「彼」を失った傷も癒える。そうすればまた、以前のような彼に戻ってくれるだろう。
早く元気になって欲しい。
元のような明るい笑顔を取り戻して欲しい。
時が経てば忘れる。忘れてくれる。そうしたら今度こそ本当に、彼は自分のものになる。
いや、今だって、彼は自分のものだ。だって今はこうやって自分の腕の中にいる。抱きしめてやれば柔ら
かく抱き返してきてくれる。
いつか時が来たら、夏の日差しを取り戻して欲しい。そうして、今度こそ、その眩しい程の笑顔を自分に向け
て欲しい。
そう思った。
(11)
手に持った籠をみて、また口元が緩んでしまった。
彼の許を訪れる時はいつも、果物や菓子を手にする事にしていた。彼は甘いものが好きだったし、
食の落ちてしまった今でも、そういったものなら食べられるだろうと思って。
彼はこれを喜んでくれるだろうか。笑ってくれるだろうか。「美味しい。」と言って、自分を見て微笑ん
でくれるだろうか。いつもそう思いながら、彼の許へと足を運んだ。
今日は珍しいものを手に入れた。きっと喜んでくれるだろう。
それは、蜜の溜まった蜜蜂の巣を薄く切って天日に干したものだった。甘く、滋養にも富んでいるの
だと聞いた。こぼれた欠片を口に含むと、しゃりっとした蜜の結晶が口の中で溶けて、濃厚な甘さが
口いっぱいに広がった。微かに花の香りがした。
けれどこの甘い蜜よりも更に甘いものを知っている。抱きしめた時に頬にかかる甘い吐息。何より甘
い彼のくちづけ。思い出しただけでうっとりとその残り香に酔いそうだ。
甘やかな抱擁を反芻して路の途中でしばし立ち止まってしまい、急に我に返って、ぶん、と頭を振る。
それから彼の屋敷を目指して足を急がせた。そこには記憶よりも確かに彼自身が待っているはずだ。
甘い蜜を齧りながら、「美味しい」と笑う彼を想像するだけで胸が躍った。
「ヒカル、いるか?今日の土産は…」
話し掛けながら部屋に入ってきた和谷助秀は息を飲んだ。
自分ではない男に抱きとめられて、身体を揺さぶられて、恍惚の表情を浮かべるヒカル。
知らず、手に持っていた籠を取り落とした。
彼を抱いていた男がそれに気付き、顔をあげてこちらを見た。それが見知った人間である事に更に
和谷は驚愕する。伊角が和谷を認め、驚きに目を見張る。そうしながらも、伊角は更に激しくヒカル
を突き上げた。
和谷の目の前で、ヒカルは愉悦の悲鳴を上げて全身を痙攣させながら果てる。その締め付けに、
伊角もきつく目をつぶり、ヒカルを抱きしめながら彼の奥に欲望を放ったのが、見ていた和谷にも
わかった。
目の前の出来事が信じられない。
呆然としたまま、和谷は彼ら二人がきつく抱き合いながら果てていくのを見ていた。
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