Tonight 7 - 12
(7)
「進藤?」
一瞬、佐為の声かと思うような優しい穏やかな声で呼びかけられて、びくっと振り返った。
「――――塔矢。」
声と同じように優しく笑ってるアキラがそこにいて、一瞬その顔が最後に夢で見た佐為の顔と重なった
ような気がした。
どうしてそんな風に見えたんだろう。塔矢は塔矢なのに。佐為とは全然違うのに。
「どうした?ぼうっとして。」
「進藤!さっきから呼んでるのに!」
怒ったような声が聞こえて、やっと我に返った。
「明日、ボクと対局する約束を、覚えてるだろうな。」
「あ、うんうん、覚えてるよ。えーと、」
秀英と明日の時間を確認していると、社がそろそろ新幹線の時間だと言うので、日本チーム3人は
七星ホテルを後にした。
それから東京駅まで社を見送って、途中からアキラとも別れてようやく自宅に帰ったらカレーの匂い
がヒカルを待ち構えていた。
今日一日、いや、今日だけじゃなくて、北斗杯の間、その前から色んな事があって、余りにも濃密な
日々で、もうすっかり疲れ果てて、後はもう眠ってしまおう、そう思っていたはずだったのに。
それなのに、どうしてこんなに必死に走っているんだろう。
理由なんてわからない。
でも、まだ今日が終わっちゃいけない。
だってし残したことがあるから。言っていないことがあるから。
だから、走れ。
(8)
駅を離れ、人が少なくなってくれば、もう周りを気にせずに走ることができる。
あの角を曲がって、あの通りを真っ直ぐ行けばそこに目的の場所はある。
後少し、後もう少しだ。
ゴールを目指してヒカルはラストスパートをかける。
―――塔矢!
ゴールにタッチするように呼び鈴を押し、そのままそこにしゃがみこんだ。
ゼエゼエと荒い息をつきながら手を伸ばしてもう一度呼び鈴を押した。
「どちら様ですか?」
少ししてから、インターフォン越しにアキラの声が聞こえた。
「と…や…?オレ、」
「進藤?」
びっくりしたようなアキラの声にヒカルはほっとして、またずるずると地面にへたり込んだ。
程なくしてガラガラと戸を開ける音が聞こえた。
玄関からようやくここまで歩いてきたアキラがヒカルを見下ろしているのを感じて、ヒカルは疲れた
ように顔を上げた。
「……塔矢、」
まだ荒い息はおさまりきらず、前髪が汗で額に張り付いている。
「もしかして走ってきたのか?」
「水、ちょーだい…」
(9)
「少しは落ち着いたか?」
「ああ………ごめん、こんな時間に。」
「いや、構わないけど。」
何があった?とか、どうしたんだ?とか聞かれるかと思ったのに、彼は何も言わなかった。
だから自分も何も言わずに黙って出されたお茶を啜っていた。
合宿のときに何度も飲んだのと同じ味だった。
「お風呂、沸いてるけど、入ってくる?」
「ああ、うん……」
塔矢邸の広い檜風呂につかって、ふううっと深い息をついた。
湯船にもたれるようにして天井を見上げる。
本当に広い風呂場だな、と思う。
まるで旅館の風呂みたいだ、と最初に入ったときも思った。
「あんなに広いんだからさー3人一緒に入ってもよかったんじゃん。」
「せやな。折角の合宿なんやし。」
社はそんな風に応えたけれど、アキラにも言ってみたらどんな返事をしただろう。
修学旅行みたいに皆で一緒に風呂に入って誰のが一番デカイかとか比べっこをしたり、並べて布団
を敷いて、枕を投げたりプロレスごっこをしたり、そんな事もしてみたかったな、と、終わってしまって
からふと、思う。
社は今頃はもうさすがに大阪に着いただろう。
もしかして社は明日っからまた学校なのかな。大変だな。
親に反対されてるなんて、そんな親もいるんだなんて思いもしなかった。
(10)
「進藤?」
「な、なに?」
あわてて振り向いたが、声は浴室の外からだった。
「着替え、浴衣でよかったら着て。タオルと一緒に置いておくよ。」
それだけ言って、アキラが去っていくのがわかった。
涼やかな声。いつもと変わらない声。あいつの性格と同じ、すっぱりはっきりした声。
オレ、突然押しかけてきたのに、風呂まで先に入っちまって、悪かったな。
てゆーか、一緒に入ればよかったんじゃん。
何で思い出さなかったんだろ。
一緒に入ろうぜ、って言えばよかったのに。
そう言えば二日も泊まったのに、あいつのハダカとか着替えてると事か、一回も見たことなかったな。
いや別に見たかったって訳でもないけど、あいつって結局いっつもスキが無くってさ、社なんか風呂
からあがったらオヤジみたいに上半身ハダカで転がってたのに。
いいよな、社って背ぇ高くって。オレもあんなになりたいな。とっても同い年とは思えないよな。ちぇ。
オレなんか塔矢より背ぇ低いんだもんな。やっぱ牛乳かな。
塔矢って細っこく見えるのに、結構スタミナあるし、背もオレより上だし、どんななんだろう。塔矢の
ハダカって。
思い描こうとした瞬間に、カァッと顔が熱くなったのを感じた。
なんだ、なんなんだ、オレ。
どーして、塔矢のハダカを想像しただけで、こんなになってんだ。
バカじゃないか。どうかしてる。
訳のわからない熱を冷まそうと、蛇口をひねって勢い良く水を出し、ざばざばと顔に浴びせかけた。
(11)
「すごい着方だな。」
風呂から上がったヒカルを見てアキラは吹き出した。
「だって浴衣なんて着たことないし、大体なんでパジャマとかじゃなくて浴衣なんだよ?」
「ごめん、洗濯したのが今なくて。……直してあげようか?」
「い、いらねえよ!これでいいの、オレは。」
何だか気恥ずかしくてぶっきらぼうに言うと、アキラはクスクスとおかしそうに笑った。
なんだか調子が狂う。こんな風に優しすぎる塔矢は。
「あの、そう言えばさ、塔矢先生やおばさんは?」
突然気付いて、アキラに尋ねた。確か、北斗杯には帰ってくるって言っていたような気がしたけど。
「ああ、出かけたよ。」
「出かけた?こんな時間に?」
「ああ、そういう意味じゃなくて、今度は台湾に行くんだって。」
「え、ええっ!?」
びっくりしてヒカルの声が思わず大きくなる。
「だって、中国から帰ってきたばっかなんだろ?それなのにまた海外?」
「うん、中国で台湾の事を聞いてきたらしくて、
検討室には来てたらしいね。揚海さんから聞いた。」
「来てたらしいって顔も見てないのか?」
「ああ。今日帰ってきたら母の置手紙があって、まるで『買い物に行ってきます』みたいな感じで、
『台湾に行ってきます』って。さすがに夜電話があったけどね。」
「………おまえんちって、放任主義なんだなあ……」
「放任主義というか、そうだね、父はきっと新しい世界に夢中で、母は父が一番の人だからね。
これだけ育った息子の事なんか、放っておいても大丈夫だと思ってるんだろう。
実際、大丈夫だしね。」
笑いながらそう言うと、アキラは「それじゃボクもお風呂に入ってくるよ」と言って部屋を出て行った。
(12)
「進藤、まだ寝てなかったのか?」
風呂から上がってきたアキラがヒカルに声をかけた。
合宿の時に寝たのと同じ部屋に今度は一つだけ布団が用意されていたからそこに寝ろと言うことなの
だろうと思ったけれど、なんとなくまだ寝る気にならなくて、ぼうっとしたままアキラが上がってくるのを
待っていた。
たたんだままの布団に寄りかかるようにして座っていたヒカルはアキラを見上げて言った。
「あのさ、塔矢、オレ、」
「なに?」
真っ直ぐ見つめられると何と言っていいかわからなくなる。
「おまえ………」
けれどそれ以上続ける先がわからなくて小さく頭を振って視線を落とした。
そんなヒカルの様子にアキラは小さく微笑んで、静かにヒカルの正面に座った。
ヒカルは少しだけ顔を上げてアキラを見て言う。
「おまえさ、寂しく、ない?」
「寂しい?なぜ?」
「だって…こんな広い家に一人でさ……」
「そうだね……はじめの頃は、静か過ぎて居心地が悪いような気もしたけれど……
一人もすぐに慣れたし。」
だから寂しいと思ったことは無いよ。そんな風にアキラは言った。
そしてヒカルを見て、静かな、優しい声で尋ねた。
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