兄貴vsマツゲ? 7 - 8
(7)
緒方は一瞬、心臓が止まりそうになった。
幼い頃のアキラは素直で聞きわけの良い子供だったが年に一、二度大泣きすることがあり、
目の前のアキラの涙がその時の記憶を甦らせたためだった。
幼いアキラが大泣きする時はまず見開いた目から大粒の涙がぽろぽろっと零れ落ち、
次いでふぇっ、ふぇっとしゃくり上げる声と共に可憐な顔がくしゃくしゃに歪んで、
次の瞬間天地を揺るがすような大音声がご近所一帯に響き渡る。
またそういう時に限ってアキラをなだめられる明子夫人がいない。
小さな怪獣のように喉も裂けよと泣き続けるアキラに師匠も門下も上を下への大騒ぎとなる
悪夢のような情景が、緒方の脳裏に劇的にフラッシュバックした。
だがアキラはぽろぽろぽろとそのまま更に数粒、強気な目から涙を零すと、
濡れた長い睫毛を閉じ静かに俯いて、声も立てずに泣き始めた。
「・・・・・・!?」
予想外の反応に、緒方は己が目と耳を疑う。
アキラが小さく肩を震わせるたびに、艶やかな黒髪の中の綺麗なつむじが上下に揺れる。
「・・・アキラく・・・」
身を乗り出しアキラに触れようとした緒方の手を、ビシッ!と横から飛んできた手が払った。
「うぉっ」
ジンと痺れてしまった手をもう片方の手で押さえながら、緒方は向かい側に座る敵を見た。
永夏は緒方と視線を合わせたまま整った美貌にせせら笑うような笑みを浮かべると、
指の長いしなやかな手で緒方も愛用しているイタリア製高級ブランドのハンカチを取り出し、
泣いているアキラの顔を心配そうに覗き込みながらそっと差し出した。
「あ、ありがっ・・・ありがとう・・・っ」
アキラは小さくしゃくり上げながらハンカチを受け取り、目に押し当てて泣いた。
そんなアキラの肩を慰めるように抱きながら、永夏は呆然としている緒方に向かって
クルリと反りあがった長い睫毛を威嚇するようにバサバサ言わせ、もう一度艶然と笑った。
(8)
「〔塔矢はああ言ったが、今の、痴話喧嘩にしか見えなかったぜ〕」
「・・・あぁ?だからオレは韓国語はわからんと言ってるだろうが」
「〔塔矢もこんなオヤジのどこがいいんだか・・・思い出したぞ、緒方九段。塔矢行洋先生との
十段戦最終局の棋譜を見たことがある〕」
「・・・・・・?」
「〔塔矢先生は自由な素晴らしい碁だった。それまで何十年来のご自身の型をすっかり変え
られた。そうして先生は日本を出て世界へ――あの対局、勝ったのはアンタだが人の記憶に
残る碁を打ったのは負けた塔矢先生のほうだった〕」
永夏は今頃台湾の空の下にいるだろう塔矢行洋に対して敬意を表するようにしばし視線を
窓の外の雲の彼方に彷徨わせ、それから改めて緒方のほうに向き直ると厳しい口調で宣言した。
「〔あの対局、オレが塔矢先生の相手だったらもっといい碁を打っていた。棋士としても
オレのほうがアンタより上だ。アンタよりオレのほうが塔矢に相応しい〕」
「何を言っているんだかわからん。・・・せめて英語で喋れ」
緒方は肩を竦めた。
ふと見ると、アキラはまだ時折しゃくり上げてはいるものの涙は止まった様子で、
不思議そうに二人のやり取りを眺めている。
取りあえず泣きやんでくれたことにホッとした。
が、その肩にまだ永夏の手が置かれているのが気に入らない。
「アキラくん、落ち着いたか?・・・だったら、帰るぞ。車で家まで送るから、ついて来なさい」
煙草の火を揉み消しながらそれだけ言うと、緒方はソファから立ち上がりわざと後ろを
振り返らずに大股でドアに向かって歩き始めた。
それは昔、幼いアキラがブランコや砂遊びに夢中で夕方になっても帰りたがらない時に
よく使った手だ。
当時のアキラなら緒方が自分を置いていってしまうことに驚いて、どんなお気に入りの
遊具も放り出してボクもう帰る〜!と大慌てで後を追ってきたものである。
が、今回は緒方の手がドアノブに掛かり、カチャリと音を立ててドアが開く段になっても
一向にアキラが追ってくる気配がない。
「アキラくん?」
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