裏階段 アキラ編 7 - 8
(7)
「先生」と明子夫人の出合いはお見合いといえるかどうかも分らない程度の
顔合わせだったと聞いている。
手合いが立て込んで殆ど「先生」不在で仲人側で式の日取りを決めようとした矢先
既にもう明子夫人のお腹に生命が宿っていると分かって自分も含めて後援会や
門下生の面々はかなり驚き慌てたものだった。
「…迷惑でしたか?こんな話をされて。」
「いや、自分がどうだったか、少し思い返していたんだよ。」
進学の悩みであれば両親に相談するべきなのだろうが、今のアキラは無意識に
それを拒んでいる。
恐らく今までそういう感情を抱いた事がなくて持て余しているのだろう。
“反抗期”というものを。
今まで見ている限りで「先生」と明子夫人がアキラの意志を頭ごなしに押さえ付けるような
“教育”方針は遂行してはいない。むしろ息子の意志を尊重し過ぎているくらいに見える。
なまじ子供の方に自立心があると“大丈夫な子”を演じ続けるようになる。
思春期に入り不安定な精神で悩みを抱えても親には打ち明けようとはしなくなる。
特に自分の将来に対する漠然とした不安と悩みは深刻であるにもかかわらず。
「緒方さんの高校生時代って、何だか想像出来ないです。」
「想像しなくていい。」
オレが高校を辞めた年に君は生まれたんだよ、と心の中で語りかける。
家を出る時にもしかしたらこのまま「先生」からも離れる事になるかもしれないと思った。
離れられなくしたのは新たに生まれた生命の存在だった。
(8)
実のところアキラとこうして食事をするのは久しぶりの事だった。
「先生」が日本の囲碁界から引退し中国の囲碁チームと契約をしてから事実上塔矢門下は
解散に近い状態だった。
もちろん「先生」が帰国している間に棋士らが自然に集い研究会のような事を定期的に
続けてはいたが自分はそれにはもう参加していなかった。
「先生」の後援会の一部が分かれるかたちでオレの支援をする事になり、
「門下生を持たないか」という話が来るようになった。
あの時、「先生」に結婚話が持ち上がった時のような、タイミングというものを感じた。
この人から離れる機会が来たのだと。
「先生」の傍で「先生」と碁を学ぶ事は嬉しかった。
だが自分がその場所に相応しい人間だと思った事は一度もなかった。
今でも、それは変わらない。
ようやく離れる事ができる。
それは「彼」から離れる事も意味する。
本因坊のリーグ戦で戦った時、一つの結論がオレの中で出ていた。
「彼」はもう、共に学ぶ立場の人間ではなくなったのだと。―だが。
「もう一度、時間をつくってもらえますか…?」
棋院会館で、高段者の手合い日で廊下で出会った時アキラがそう伝えて来た。
前回最後に会った時に“二度と二人だけでは会わない”と約束したはずにもかかわらず。
オレの決意をまたもや「彼」がこうして鈍らせる。
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