誘惑 第三部 7 - 8
(7)
玄関のチャイムが鳴るのが聞こえて、ヒカルの身体がビクッとふるえた。
何を考えているんだ。今、あいつの事を考えていたからって、あいつがうちに来るはずがないだろう?
バカな事、考えるな。大体、来るなって言ったのはオレなんだ。それだって、もうずっと前の話だ。
「はーい、」と言いながらお母さんが玄関へ向かう。ドアを開ける音がする。
ひさしぶりね、とか何とか客と話している声が聞こえる。
ほら、あいつのはずがない。近所の人かな。こんな時間に、珍しい。
「ヒカル!」
玄関からヒカルを呼ぶ母親の声がした。
ヒカルの手が止まる。
「ヒカル、塔矢くんよ。」
一瞬、心臓が脈打つのを忘れた。そして次の瞬間には激しく暴れだした。
スプーンを持った手が震えているような気がする。
「ヒカル?」
母親が食卓へ戻ってきてもう一度ヒカルに声をかけた。
「塔矢くん待ってるわよ、どうしたの?」
「う、うん、なんでもない。今行く。」
声が震えそうになるのを必死で押し隠して、ヒカルは腰を上げた。
なぜここへ。何しに。今更。
(8)
玄関に思いつめたような表情のアキラが立っていた。
アキラを目にして、ヒカルは血液が逆流するような気がした。目も、耳も、身体も、心も、何もかも
がアキラに向かって引き寄せられる、そんな気がした。
でも実際は廊下に出たところで立ち止まってしまって、動けなかった。声も出せなかった。
会いたかった。会いたくて、会いたくて、死にそうなくらいだった。どうして。どうして今頃になって、
オレがこんなに必死におまえを忘れようとしてるのに、今更、会いに来るんだ、塔矢。
アキラが顔を上げてヒカルを認めた。一瞬、戸惑ったような顔をして、それから小さく、ぎこちなく、
ヒカルに微笑みかけた。そして何か言い出そうとして軽く口を開き、けれど声が出ない、というよう
にまた唇をかみ締めている。ヒカルはその口元から目が離せなかった。
「ヒカル、どうしたの?あがって頂いたら?」
背中に母親の声がかけられた。
「あ、いや、えーと…」
どうしよう。どういうつもりで来たんだろう。そう思ってアキラの方を見た。
「…久しぶり、だね。」
ようやくアキラが口を開いた。懐かしい声。
「突然、ゴメン。ちょっと出られない?」
「わかった。」
それだけ言ってヒカルは踵を返してアキラに背を向け、自分の部屋へ向かった。
ジャージをジーパンに履き替え、とんとんと階段を降り、母親に、
「お母さん、オレ、ちょっと出てくる。」
と声をかけた。
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