敗着-透硅砂- 7 - 8
(7)
辞書をめくる手が止まった。
歩道橋で出くわした進藤のことが頭から離れなかった。結局、本屋へは入らずそのまま家に帰って来てしまった。
(ああ、もう…、)
一向に進まない復習を断念して、教科書を閉じた。
(……本当に驚いた…)
思い出すと心臓がドキドキする。
(ボクが家に行ってたこと、知ってたんだ…)
自分が過去にせっせと進藤の家を訪ねていたことは、今となっては恥ずかしいばかりだった。
考えると憂鬱になるのでそれ以上は考えることをやめた。
(今でも避けられてるのかな……。ボクは…)
手に持ったシャーペンをしばらくもてあそんでいたが、ノートを閉じて机の脇へ寄せるとレポート用紙を取り出して目の前に置いた。
(……郵便物の受け取り拒否はされてないだろう…)
表紙を開き下敷きを挟み込むとシャーペンを走らせた。
”拝啓”……
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げ
そこまで書くとおもむろにそのページを引き千切り、力任せにグシャグシャと丸めた。
自分の性格が嫌になった。
振り向いて屑篭めがけ思いきり投げつける。紙の球はその少し手前でポトリと畳に落ちた。
(囲碁とお勉強ばかりしてきたお坊ちゃん)という緒方の言葉が胸に突き刺さった。
がっくりとうな垂れ立ち上がると、のろのろと拾いに行き屑篭へゴミを捨てる。
ため息が出た。
畳の上にぺたりと座り込み、屑篭の網目模様をしばらく眺めていた。
(そうだ…)
ふと思い出して机に戻り、上から二段目の引き出しを外した。
(まだ雨は降っているな…)
家では極力控えていたものだ。
机の前にひざまずくと腕を思いきり伸ばし、引き出しが入っていた空間の奥を探る。
(……、…あった。)
指の先に触れた物を取り出すと、机の上に置いて立ち上がった。
(8)
取り出した赤い箱からライターと煙草を一本取り出した。
煙草の箱を辞書の陰に隠すと障子を開け廊下に出て、鍵を外して引き戸を開ける。
霧のような細かい水滴を含んだ空気が静かに顔を包み込んだ。
煙草を口にくわえると、碁会所の客が忘れていった百円ライターで火を点ける。雨が匂いを消してくれるような気がした。
深く吸い込み、口から煙草を抜くとゆっくりと煙を吐き出す。
(ボクは……お父さんの望むように生きてきた…。)
ゆったりと柱に凭れかかり顔を柱にあてると外を見た。
戸を開けたところから部屋の明かりが漏れて、暗闇に紫陽花が浮かび上がっている。雨粒が花弁を叩いて葉の上にぽたぽたと雫を流していた。
(だけど…、…気がつけばボクは陰でお父さんが悲しむことばかりしている…)
顔を上げ空を見上げた。
部屋からの明かりが漏れるところには大きな雨粒が降ってくるのが見えたが、軒先のその向こうには墨のように黒い空が広がっているだけだった。
(もうすぐ止むかな……)
遠くで雷が鳴っていた。
(雨…やんだのかな……)
外が静かになっているのに気がついて、ヒカルは窓を開けた。
(やんでる…)
窓枠に肘をかけ外を見渡した。気温は少し下がっているようだった。樹木や建物から水滴が滴り落ちる音がかすかに聞こえてくる。
傘の下のアキラの顔が蘇った。
(塔矢…。)
胸の辺りが少し痛んだような気がして、手を当てて軽くTシャツを握った。
目線を落とし、玄関の門扉を見下ろした。雨が空気中の埃を洗い流したのか、門灯がいつもよりくっきりと光って見えるようだった。
(あいつ…いつも来てくれてたんだよな…)
その時、自分は緒方の部屋にいた。
(あいつ…、どんな気持ちであそこに立ってたんだろう……)
門の外に立っているアキラが見えるような気がして、慌てて目を逸らすと顔を上げた。
小さくため息をつくと背筋を伸ばし、遠くにゆらゆらと揺れている街の灯をじっと見つめた。
|