残照 7 - 8
(7)
泣きながら、ヒカルは棋院の奥部屋で佐為の棋譜を初めて見たときのことを思い出した。
あの時も泣いた。
けれどあの時は一人だった。
佐為の事は誰にも言えなかったから、たった一人で泣いて叫んで、けれどそれを受け止めてくれる
人はいなかった。だからヒカルの涙も叫びも、ヒカルの中で逃げ場をなくしてしまっていた。
けれど今は違う。
同じ泣くのでも、今はそれを受け止めてくれる人がいる。
行洋のがっしりとした胸にすがりながら、佐為の胸はこんなだったのだろうか、と思う。
佐為には触れることはできなかった。
いつも隣にいて、どんなに身近に感じていても、決して触れることはできなかった。
いつもいるのが当たり前だと思っていたから、空気のような存在だと思っていたら、そのまま
空気のように消えてしまった。
「いつも、いつも、一緒にいたのに。ずっと、一緒だって、言ってたくせに。」
着物の袖をつまんで引っ張って、顔を見上げた。
涙で視界がぐちゃぐちゃで、その顔がどんな風にヒカルを見下ろしているのか、わからなかった。
だからヒカルは目の前の暖かい胸を、責めるようにこぶしで叩いた。
「どうしてだよ?
神の一手を極めるんじゃなかったのかよ?
まだ、届いていないじゃないか?
なのに、どうして消えちまったんだよ?」
叩きながら、また涙が出てきて、ヒカルは目の前の広い胸に顔を埋めた。
そんなヒカルをなだめるように、大きな手が優しくヒカルの頭を撫でた。
(8)
いつしか泣き疲れて眠ってしまったヒカルを、行洋はそっとソファに座らせてやった。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、濡れタオルでそっと拭う。
「…佐為…」
ヒカルの口から、今はもういない人の名前が漏れ、また一筋、涙がこぼれる。
その涙を行洋はまた拭ってやる。
息子と同い年のその少年は、寝顔のせいなのか、歳よりも随分と幼く見える。
実際、ヒカルの口から漏れる言葉は支離滅裂で、行洋には理解できない事のほうが多かったが、
それでもわかった事はある。
それは、saiがもういないのだ、という事実。
そして、彼は進藤ヒカルにとって、大切な、身近な人物だったのだろう、という事。
確か去年の5月頃からだった。この少年が手合いに出て来なくなったのは。
自分がsaiと打ってから、それほど日が経ってはいなかったと思う。
彼―saiが消えた(?)のはその頃だったのだろうか。
きっと、そのために、この少年は碁から離れようとしたのだろう。
どんな思いで別離の悲しみを乗り越えて、この少年はここへ戻ってきたのか。
行洋は復帰後のヒカルの快進撃を思い出し、そしてその原動力がどこにあったのかが
わかった気がした。
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