失着点・展界編 71
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和谷自身、決して楽に戦えるとは思ってはいなかった。この数日間、死にもの
狂いで塔矢アキラの戦績を繰り返し並べてきた。だが、ここまでのアキラの
早碁に真正面からぶつかったことはなかった。
「ク…ッ」
それでも出来るだけ食い下がる気でいた。先番と言う微少な有利さも最大限に
利用するつもりだった。だが、そんな和谷の戦意は、始まって僅か数分で
別のモノに塗り替えられて行く。パンッとアキラの石が一つ置かれる毎に、
和谷の戦略構想は一気に枝打ちされていく。数手先、数十手先を見越した情け
容赦のない詰み。呼吸することさえも許さぬように和谷を追い詰めて来る。
和谷の石を持つ右手が、ドクンドクンと脈打つ。痛みでは無く、到底
かなわない相手を前に手にした剣を下ろせないでいる葛藤によるものだった。
頭ではもう分かっている。勝てないと。ほとんど手数がない盤面がすでに
その事を示していた。歯噛みをしながら和谷はアキラを見た。
無表情な程に阿修羅に近い棋士が、目の前に座してこちらを見下ろしている。
…何故だ、
と和谷は思った。なぜ、こんな魂と同じ世代にこの世に生まれてきて
しまったのか。この先一生、全てにおいてこの者の下に従じるしかないのか。
なぜ、塔矢アキラは進藤ヒカルを選んだのか。
それでも、震える指先で石を盤上に運ぼうとした。
「まだ、打つ気かい…?」
アキラの声で、冷ややかに、そう聞こえた気がした。
和谷は歯を食いしばり右手を振り上げた。次の瞬間激しい音が室内に響いた。
石を置くのでは無く、和谷は右手を碁盤に激しく打ち付けていた。
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