裏階段 アキラ編 71 - 75
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オレの腕の中でアキラは人形のように動かなかった。
見開かれていた目は閉じられ、時折苦しげに呼吸を継いでいるが、凍り付いたように
四肢を強張らせて投げ出している。
右腕でアキラの肩を抱き唇を捕らえたまま左手でアキラのベストのボタンを外しにかかり、
ネクタイを緩めていった。
そのままソファーの上にアキラの体に覆いかぶさるようにして倒すと緩めたネクタイの
奥のシャツのボタンを外した。
そしてもう一度顔を離し、アキラの表情を見た。
アキラは一瞬オレと目を合わしたが、すぐに空ろに横を向いた。青ざめた顔をしていた。
アキラのシャツの胸元を開くと幼さの残る顎から首筋のラインが露になった。
耳たぶに唇を軽く触れさせる。
「あっ…」
アキラが眉をひそめ、肩を竦める。産毛の生えた頬や首筋の毛穴が立つのが見えた。
幼い頃から、そんなに直に触れる機会がなかった。オレだけでなく、
肉親ですらあまりアキラと触れあっているような所を見た事が無かった。
そのアキラの皮膚に唇を吸い付ける。
滑らかで透き通るように白い表面だった。
耳たぶは冷たかったがその下の首の付け根辺りは体温が高く感じた。
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抗う動きを見せたわけではなかったがアキラの両手首を握って軽く押さえ、
首筋にそってキスを繰り返した。
「…アッ、あ…」
触れられている部分を反らすようにして頬を自分の肩に押し付けアキラは吐息を漏らした。
心の中でオレはアキラが拒絶の言葉を吐くのを望んでいた。
そうでなければ、自分を抑える事が出来なかった。
アキラの体の甘い香りの中に潜むもう一つの匂いに惹かれていた。
ふいに、その時電話が鳴った。
驚いてオレが体を起こすとアキラはホッとしたように息をついていた。
救われたのはオレの方だったかもしれない。
ソファーから下りてパソコンの脇の電話の受話器を取ると芦原の明朗な声が響いた。
「緒方さん、時間ありますか?碁会所に来て打ちませんか?」
「…そうだな。」
軽く頭痛がしていた。受話器を耳に押し当てながら軽くこめかみを押す。
「…もう少ししたら、行くよ。」
「ボク、アキラくんにすっぽかされちゃったみたいなんで。」
ちらりとリビングの方を振り返ると、アキラは体を起こし、ソファに座っている後ろ姿が見える。
芦原と2〜3言葉を交わして電話を切って戻ると、緩んだネクタイも外されたボタンもそのままに
アキラはそこに居た。
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深くため息をつき、髪を掻き上げながらアキラの傍に戻り隣に座るとアキラの全身に
再度緊張感が走るのがわかった。
そんなアキラに手を伸ばし、ボタンを留め、ネクタイを締め直してやる。
「…何をされようとしていたか、わかるな。」
アキラは目を伏せて頷く。一瞬泣いているのかと思ったが、そうではなかった。
「…もう一人でここには来ないことだ。」
弾かれたようにアキラは顔を上げてオレを見つめた。
「…なぜですか?」
オレはカッとなった。
「わからないのか!?オレはお前を…」
その後の言葉を続けられなかった。
アキラがオレを睨んでいた。
「…芦原さんと碁会所で会う事になっていたんです。…先に行きます。」
納得出来無い怒りを押さえるようにため息をついてアキラは立ち上がると、別の椅子に
掛けてあった上着を手に取り、玄関に向かった。
そして立ち止まり、振り返った。
「緒方さん」
その表情には幼さは欠片も残っていなかった。
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それは彼とオレとの間が、少なくともこの部屋の中では対等である事を主張していた。
「ボクは進藤を追います。彼を追う事で何かが掴めるような、そんな気がするんです…。
……でも、」
そう言いながら彼はゆっくりこちらに近付いて来る。
オレは射すくめられたようにソファー上でアキラの方を見たまま動けなかった。
「…でもそれは、決してあなたから離れるという事ではありません。」
アキラの手が伸ばされてオレの眼鏡を外し、テーブルに置くと、
オレの肩を抱き寄せるようにしてアキラが唇を重ねてきた。
今までのものと変わらない、あやされ宥められているような軽く優しいキスだった。
つまらない嫉妬をしている事を彼に見抜かれていた。
「…“その時”は、ボクが決めます。もう少し待ってください…。」
意味深い言葉と共に微笑むとアキラは玄関に向かい、もう一度振り返ってオレを見つめると
部屋を出て行った。
力が抜けたようにソファーに腰を落としたまま、額に手を当てた。
情けなかったと感じるとともに、アキラがオレに対して持つ底の知れない感情を感じ取った。
彼にとって完全にオレは彼が所有するところに在るものなのだろう。
彼がそう決めた以上、そこから逃れる事は出来ないのかもしれないと思った。
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晴れて海王中学に合格し、初めて真新しい春先から通うその学校の制服に
身を包んだアキラが碁会所にやって来た時はちょっとした騒ぎになった。
シンプルなラインのデザインの制服はアキラに良く似合った。
半年ほど前から受け付けとなった市河嬢はもともとアキラ贔屓であったが
彼女のはしゃぎっぷりはすごかった。
「ちょっと、アキラくん、もう一枚!」
手にしたデジタルカメラで何枚もの写真を撮る。この日を予測して前々から
準備していたものらしい。
他にもアキラが制服で来たと聞いてわざわざカメラを家に撮りに行く輩が居て
碁会所内は撮影会会場になった。
当然常連客らは撮るだけでなく争ってアキラと同じ画面に収まりたがる。
「未来の名人候補だ。家宝になる。」
「市っちゃん、わしもお願いするよ、老い先短いジジイの冥土の土産にさせてくれ。」
「ああん、これじゃああたしがいつまでもアキラくんと一緒に写れないじゃない!」
騒ぎの外側でオレと碁を打っていた芦原までうずうずしていた。
「あのアキラくんが中学生ですか…、早いものですね。ボクらも年をとるはずだ。」
「…お前が年寄り気分になるのは勝手だ、芦原。オレまで巻き込むな。」
そう言いながらも、無意識に煙草の煙の合間からアキラの姿を目で追っていた。
会うのはあの日別れて以来だった。
元々アキラは他の子供と比べて大人びた印象があったが、こうして見ると
すらりと背が伸びて、表情も物腰も一層落ち着きが出て来たようだった。
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