裏階段 ヒカル編 71 - 75
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暫くして進藤と同期にプロになった少年らが入室して来て、その後にアキラもやって来た。
「緒方さん…桑原先生…?」
オレが来る事はアキラも予想していただろうが、やはり桑原が居た事に戸惑ったようだった。
「キミも進藤の事が気になる1人か?」
「え?ボ、ボクは――」
ストレートに問われ、アキラに桑原をあしらえるわけがなく、動揺して頬を赤らめる。
理想的な反応に桑原は大漁旗でも掲げるようにはしゃぐ。
「そうか…となると名人もじゃな。今や5冠の名人までがあの小僧に注目しとるのか。オモシロイ!
これは楽しみな一戦じゃの。どうだ、緒方くん。どっちが勝つか、賭けんか?」
「賭けですか。オモシロイですね」
ほとんどヤケになっていた。
父親と進藤の対局に居ても立ってもいらないアキラを観察に来たつもりだったのに、その楽しみを
すっかり桑原に台なしにされたのだ。
そんな桑原とオレとのやりとりをアキラが怪訝そうに見ている。
自分自身、本当は何に対して苛ついているのかよくわからなかった。
「どっちに張るんです?」
「小僧じゃ」
そう言って桑原は背広の内ポケットから紙幣を取り出した。賭けを持ち出して来た時点で桑原が
進藤に張るのは当然だったが、その額は冗談にしては大きなものだった。
「穴狙いですか?」
「なんの!勝算のないバクチはせんぞワシは。それともなんだ?キミも小僧の方に張りたかったのかね?」
「名人の門下の私としては名人の勝ちは疑いませんよ」
桑原が出したものの上に同じ額を置く。今にしておもえば、逆にこれ以上はないというほど滑稽な形でいかに
自分が進藤を意識しているかアキラや桑原にアピールしてしまったようなものだった。
そして進藤と先生の対局は始まった。
こうなったらせいぜい進藤には見せ場を演出してもらいたいものだと願った。
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そして20分もの進藤の考量時間の後動き出した対局は、実に意外な展開となった。
プロとして初めての高段者との手合いはどうしても畏縮して普段の実力から遠去かる。それを
考慮に入れても進藤の選んだ筋は誰も想像していなかった不可解なものに思えた。
最初から、進藤はある意図を持って石を放った。
それは後に「名人との手合いに勇みはやった末のめちゃくちゃな碁」と酷評されたが、それは相手が
塔矢名人であるがために進藤の目論見が完璧に封殺されただけであった。
心に針の穴ほどでも隙間があればとんでもない結果を引き起こす可能性があるものだった。
モニターの手前で交わされていた以上の大博打を、塔矢名人相手に進藤は仕掛けて来たのだ。
ただ理屈ではなく進藤の打ち筋はスリリングで魅惑的だった。
ネットでアキラをねじ伏せたのが聖女のような知性的な打ち方とすれば先生とのそれは
派手な化粧と衣装で街角に立つ娼婦のように本能的に相手を誘い寝首を掻こうとするようなものだった。
saiではない、と思う一方で、そこにはsaiと同様に見る者を惹き付ける何かが存在した。
両者の違いが極端すぎるほどに、オレの中鮮烈にそれらが焼きつけられた。
先生に慢心がなく、相手の誘いに乗ることなく誘い手を封じた。それでも進藤が繰り出す一手一手は、
湖畔の底から伸び上がる白い手のように官能的に相手を誘う。
人の心に巣食う某かの欲求をくすぐる。
オレの直ぐ隣に座り、食い入るようにモニターを覗き込んでいたアキラが無意識にオレの腕を掴む。
アキラも何かを感じながら、saiとの違いに率直に戸惑っているようだった。
当然進藤は新初段シリーズをアキラが見に来る事を予測し、意識していると思われていた。
だがアキラには可哀想だが、今回の対局はそういうものとは違う次元にあるように思えた。
それと同時に進藤にこの一戦に対する嫉妬のような感情も沸いて来た。
これだけの者らが見守りながら進藤と先生との間で一種の情交が交わされあって
いるように見えた。
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だが、まだその時はそれ程大きな感情にはならなかった。その時点では。
あくまで先生が冷静に対応していたからだった。
先生は進藤に陥落しなかった。とんでもない大差で進藤が投了する事になるのは確実だったが、
桑原も最後までいかにも楽し気に戦局を見守っていた。
「のオ、緒方クン、もしまた同じような対局があったら、ワシは次も小僧に賭けるぞ」
喰えない相手だが物事の奥に潜むものを嗅ぎ捕る力には敬服する。
そして、誰よりも直に対局した先生が、進藤からより多くのものを嗅ぎ取ったに違いない。
幽玄の間では淡々と検討会が始められていた。他の棋士や立会人らはやはり進藤の無理な手を咎める
意見に終止していた。
だが先生も、そして進藤もほとんど言葉を発しない。
重厚な和室の中で進藤はいかにも居心地が悪そうな落ち着かない様子だった。
ただ妙な表情でもあった。さぞかし血気を孕み強気の戦法が通じなかった己に対する怒りで拗ねて
いるか落ち込んでいるのかどちらかかと思ったが、大きな一局を終えた棋士の顔つきには程遠かった。
大胆で魅惑的な戦法使いとは思えない、ただの幼い少年だった。
見る度に碁と本人の印象がこれ程一致しないのが不気味と言えば無気味だった。
アキラは検討会には顔を出さなかった。
同じ新初段シリーズを相手に観戦させながら、それ以外の部分では接点を持たないという
暗黙のルールを敷いているようだった。
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そして検討会の間じゅう進藤に向けられた先生の視線は穏やかなものだった。
これだけのある意味無謀な碁を打たれながら、決して失望を持ち獲ず、かえって
進藤に対する関心を強めた表情だった。
進藤がそれに気付いているかはわからなかったが、彼は検討会が終わると先生に頭を下げ、
逃げるようにして足早に立ち去っていった。
続いてゆっくりと部屋を出る先生をオレは追い、廊下で呼び止めた。
「先生…!」
先生には当然アキラに替わって進藤の力を量ろうという目的があったはずだ。
「…本当のところは、どうでした?進藤は…。まるで実力を隠してなおかつ勝ちを拾おうとしたような
打ち方でしたが…」
自分でふいに口にした言葉に自分で驚き、苦笑いした。まさか、と思ったのだ。
先生は黙ったまま先へ進む。
「…君も、気付いたかね」
先生はそう言ったような気がした。
「…緒方さん…」
弾かれたように振り返るとすぐ後ろにアキラが立っていた。先生もアキラを一瞥したが、すぐに先へ
歩き出して行ってしまった。
進藤に対してのものは対局を見てアキラが自分で答えを出すもの、そう示しているようだった。
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何も言わない父親の代りにアキラが縋るような目でオレの顔を見る。
「…オレ達はまんまとダマされていたのかもしれない」
ため息をつきながらそう言うと、アキラが驚いたように目を見張った。
「検討会で、どういう話が…?」
オレは笑って首を横に振った。
「特に何も。…先生以外は、みなダマされている。まあ、心配しなくてもオレがそのうち進藤の化けの皮を
ひっ剥がしてやるさ。…あと、記者室での事は先生には内緒だよ。少しふざけ過ぎた。あれは単なる冗談だ」
「…ボクには…そうは…」
言いかけてアキラは押し黙り、ただじっとオレの顔を見つめる。
「…何が言いたい?」
アキラは答えなかった。
「冗談じゃない」
首を振って肩をすくめ、無理にでも笑顔を作って見せた。
「進藤を追っているのはキミだろう。オレは違う。オレが追っているのは――」
その相手がいるはずの場所を振り返ったが、廊下の先に既に先生の姿はなかった。
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