平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 71 - 75
(71)
検非違使庁に行くなら曲がらなければいけないその道の端で、ヒカルは庁舎が
あるほうをじっと見ると、何かを断ちきるように、再びまっすぐに歩き出した。
足の向く先は、もう顧みる人のいない町の碁会所だ。
ガタガタと音をさせて木戸を開け、ひんやりとした空気が支配するその空間に
足を踏み入れる。
毎日寄っているから、たいして掃除する場所もないのだが、ヒカルは黙々と、
あるかどうかも分からないホコリを掃きだし、水を汲み、布をひたし、その部屋
の隅々まで掃除する。
ひととおりの手順が終わって、ヒカルは久しぶりに碁盤を出してきて、部屋の
真ん中にすわった。
伊角の警護の仕事についてからは、掃除をする時間は捻出できても、碁石を
持つ時間はなかったのだ。
まっさらな、何も置かれていない十九路をじっと眺める。
かつて、この碁盤の上で、何百何千の対局がされたのだ。
――寝不足のはずだが眠気はない。
じっとしていると体の奥によどんで開放を待つほむらが、じりじりとヒカルを
苛む。
このほむらが体を眠らせてくれない。
立ち働いていれば、ひとときはその熱さを忘れることもできたが、それさえ
今は許されない。
加賀が言うからには、そうなのだろう。自分はこの体をどうにかするまで、
検非違使庁に顔を出すこともかなわないのだ。
なんで、こんなになってしまったんだろう?
こんな時、以前なら手を伸ばせばすぐ横に佐為がいた。
ヒカルが望めば、彼はそっとあの白くて長い手をヒカルの体にからめて、その
欲求に応えてくれた。
佐為は、いつも信じられない程丁寧にヒカルに触れてくるのだ。
今年の夏に泊まりがけで一緒に避暑に行って以降、その傾向はさらに増した気
がする。
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佐為の指が体中から、柔らかく快楽を掘り起こすのをを感じ、言葉を紡ぐのも
おっくうになるほどトロトロにとろかされて、それからやっと佐為の熱いそれが
入ってくる。
酔わされて朦朧としたあたまでいつも思うのは、佐為ってうまいよなっていう
ことだ。
体中を甘い痺れに支配されて、もうこれ以上耐えることは苦痛でしかないと涙が
こぼれる寸前になった時、佐為はまるでヒカルのその心を読んでいるように、
中に入ってくるのだ。
丁寧な愛撫と裏腹に佐為のそれは、情熱的にヒカルの中を攻め上げる。
優しくて綺麗で時には可愛くさえある佐為の、そんな熱い部分に触れるたび、
それに心を暖められて、嬉しくなって、そういう時は、ヒカルも佐為に思いきり
甘えてみたりするのだ。
「佐為、もっと……」
と。
ヒカルの右手は、自然に股間に延びていた。
自分で指貫の帯を緩め、すでに立ちあがりかけていたそこに手を添えた。
それは佐為が消えて以来、ずっと自分に禁じていた行為だった。それが終わった
あとの虚しさなんて、やってみなくてもいくらでも想像がついたからだ。
だけど、今は、どうしようもなくそれがしたかった。
それほど、追いつめられていた。
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ヒカルの左手は、狩衣の留め紐を手早く解くと、臙脂色の単衣の隙間から自らの
胸元へと忍び込んだ。
自分の乳首が、とがっていくのを指先で感じながら、ヒカルはそのまま体を
碁会所の床に横たえる。
古びた木の匂いがした。
(佐為、ごめん……)
心の中で謝った。なぜなら、佐為は決してこの碁会所では、こういった行為に
及ぶことはなかったからだ。
内裏の一角でさえしたことがあるというのに、佐為はこの場所で睦みあうことは
絶対にしなかった。ここは佐為にとって聖域にもひとしい、碁を打つための場所
だからだ。
しかし、ヒカルはそれでも、できるだけ佐為の匂いと気配がこの濃い場所で
したかった。
心の中でその人の名を呼んで、謝りながら、手は忙しく動いていた。
右手に擦られるまだ色も薄い陰茎は、あっという間に熱を高め、尖端からは
濁った涙をこぼし始めている。
ヒカルは寝転がったまま、かの人の愛撫の感触を思い出しながら左手を体に
這わす。
「……ん……」
静かな碁会所では、小さな上ずった声も、はっきりと響いた。
こうしていると、疼いてくるのは腰から後ろの門のあたりだ。
ヒカルは右手を後ろへと運んだ。
自分でそんなところをいじるのは、たとえここに人の目がないとわかっていても
恥ずかしいことだったが、指は勝手に動いて、その火照った入り口をさぐった。
背を丸めて、より深くまで感覚を追っていく。冷たい床も、今はヒカルの体温を
受けて熱くなっている。
「は……っは…、」
ヒカルの二本の指が奥まで到達する度に、腿の付け根から膝のあたりまでの
筋肉がフルフルとわなないた。
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眉をきつくよせて、苦しげな程の表情で、ヒカルは最後の境地にいきつくために、
自分の左手で何度もきつく乳首を嬲った。あまりに強くそうしたので、そこは
擦り剥けて痛いほどだった。
「う…くっんん…!」
自分の肉が右手を指をきつく締め付けるのを感じながら、ヒカルは喉をそらした。
背筋を駆け登る解放感。ヒカルの根の尖端から吹き出たものが、受け止めるものも
なく指貫の中を汚した。
(やっぱり、そうじゃないか)
ヒカルは大きく肩で息をついた。
欲望を吐きだした後も、こんなにも自分は悲しい。
なぜなら、いつも最後にヒカルの体を穿って奥を濡らす、あの感覚がない。
ちっとも晴れていない体の疼き。いや、前より酷くなっている気がする。奥に
熱いものを放たれるあの感覚を求めて。
ヒカルは疲れた体を床からおこした。
乱れた前髪が目の上にかかって、よく、前が見えない。
男に抱かれるのが好きなわけじゃない。あかりを抱いてその中にいたって自分は
ちゃんと射精することができる。
だけど結局、欲しいのは佐為なのだ。触れて欲しいのは佐為だけなのだ。
なのに、肝心の佐為がいない。佐為だけが。
(佐為、佐為、おまえ何処いっちゃんだよ。俺を置いて、どこいっちゃったんだ)
その時、ヒカルは何を考えていたわけでもない、ぼんやりと自分の手が腰の
太刀の柄にのびるのを見ていた。
太刀が抜かれ、それを自分の手が持ち上げて、首筋に持っていく動きを
他人事みたいに眺めていた。
そして、その冷たい刃の感触を首に感じたときも、どこか遠くの出来事
みたいだった――
「何をしているんだっっ!」
自分のものではない叫び声と、手からもぎ取られ、部屋の端まで投げ飛ばされた
太刀が壁に跳ね返って落ちる音に我にかえった。
目の前に賀茂アキラの、小奇麗な顔があった。
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「君は、いったい何をしているんだ! 自害でもするつもりか!!」
「違う。そんなつもりじゃなかった」
「そんなつもりもなく、君は自分の首に刃を添わすのか!」
「佐為に会いたかったんだ」
そう、死ぬつもりなんかなかった。ただ、会いたかったのだ、佐為に。
突然現れた賀茂アキラをみて、こいつはいつもみたいに自分をつけて、
この碁会所の外で待っていたんだヒカルは気付いた。そして、いつまでたっても
出てこないヒカルにしびれを切らして、碁会所の中に踏み込んだのだろう。御苦労な
ことだ。
「おまえ、佐為が何処いったか知らない?」
「佐為殿は死んだ。死んだんだ」
「――でも、遺体は誰も見てない」
「いないのなら、死んだのと同じだ」
ヒカルはアキラの顔を睨みつけた。
綺麗な、相変わらず夜の湖水のように澄んだ瞳がヒカルを見ていた。
(何もかもわかったような顔しやがって)
理不尽な思いに腹がたってきた。
怒りのためか頭がはっきりしてきて、ヒカルはふいに自分の状況を飲み込んだ。
乱れた着衣と精液の匂い。きっとアキラには自分がここで何をやっていたか、
わかってしまっている。
よりにもよって、こいつに、一番知られたくないやつに、自分のこんな姿を
見られてしまった。恥ずかしくて悔しくて、それが怒りをさらにかき立てた。
ヒカルは、最近自分が何故アキラを避けていたか、やっとわかった気がした。
それは、アキラが綺麗だからだ。
彼の心根を現すような真っすぐに降りた黒髪も、深い色の瞳も、綺麗なだけに、
反対にその前に立つヒカルの醜さを際立たせる気がする。
こうやって、自分がこんなに汚くて苦しんでいるのに、アキラは自分だけは
清廉潔白なような顔をして、ヒカルを見ている。
それが憎らしい。
「お前なんか、何にも知らないくせに」
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