光明の章 71 - 75
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人目もはばからずしゃくりあげる少年を、周囲の乗客は薄気味悪そうに一瞥し、
すぐさま厄介事は御免とばかりに視線をそらして無関心を装っていた。中には怪
訝な表情を崩さぬままヒカルを執拗に観察する者もいたが、それ以上の事は何も
起こらなかった。
ヒカルの背中で携帯が鳴る。ヒカルは和谷からだと思う。
和谷はきっとあれを見ただろう。自分の身を心配してくれているのだろうが、慰
めだろうと謝罪だろうと、今は誰のどんな言葉も聞きたくはなかった。
涙の止まったヒカルの横に、一人の男が強引に腰を下ろした。
男は向い側の乗客から身を守るように鞄を膝の上に立て、しばらく無言のまま揺
られていたが、二駅程通過したところでおもむろに口を開いた。
「家出してるの?」
尋ねられているのが自分だとはすぐに気付かず、ヒカルが顔を上げたのは質問か
らかなり間があいてからのことだった。俄かに芽生えた警戒心と共に、潤んだま
まの瞳を見知らぬ男に向ける。灰色の背広を着た、父親とそう歳の代わらなさそ
うな中年のサラリーマンだった。男は小声で質問を続けた。
「家出してるんじゃないの、キミ」
「…違います」
「嘘だ。さっきから見てたけど、キミ降りる気ないでしょう?」
「そんなこと…」
否定しようとした矢先、男の手がヒカルの左手首を掴んだ。
「行くところがないのなら、私が世話してやってもいい。大丈夫、警察に通報し
たりしないよ。その代わり…」
男は掴んだヒカルの左手を手前に引き寄せると、そのまま自身の股間へと押し当
てた。膨らみ、固くなった部分が衣服の上からでもはっきり確認できる。
「!」
掌から伝わる男の欲望が悪夢の記憶を甦らせる。ヒカルの額に汗が浮く。
男の息が次第に荒くなるのがわかる。
手を引こうとしても男の力が強くて戻せない。それならばとヒカルは喘ぎ始めた
男の股間へと逆に手を押し付け、全体を包み込むようにして力の限り握り締めた。
「───ッ!!!」
理解不可能な声を上げ、男が股間を押さえ込んだ。解放されたヒカルはすぐさま
立ち上がり、隣の車両へと走って逃げた。
次の駅で飛び降り、前のホームに停車中の鈍行に駆け込んだ。男が追いかけてく
るかもしれないと発車するまでシートに身を隠していたが、ヒカル以外乗り込ん
だ者はいなかったようだ。
発車の合図と共にヒカルは身を起した。
何処行きの電車だろうかと確認し、思わぬ偶然に目を見張った。次の駅で降りれ
ばアキラの住む町に辿り着いてしまう。
ヒカルは苦笑混じりに目を閉じた。
こんな時ですら笑える自分がなんだか滑稽だった。
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雨が降っていた。
傘を差して歩いていると、公園の砂場で誰かがしゃがみ込んで泣いているのが目
に留まった。よく知っているその背中に、アキラは声を掛ける。けれど、その声
は雨音にかき消され、その人の耳には届かない。
髪も肩も服も何もかも濡れている。どしゃ降りの雨の中、傘も差さずにその人は
ずっと、声を殺して泣いていた。
駆け寄って傘を差し出さなければと思う。それなのに、いつの間にかガラスの壁
に隔てられ、近づく事もままならない。気が付けば雨が降っているのは向こう側
だけで、こちらの世界は水滴一つ落ちてはいなかった。
早く連れ出さなければ。
これ以上、悲しい顔なんて見たくない、だから──。
「──進藤!!」
その人の肩を掴んだと思った瞬間、アキラは布団から跳ね起きていた。
「…夢……か…」
アキラは自分の頬に手をあてた。何故か濡れている。夢を見ながら泣いたのだろ
うか、とアキラは立ち上がって小さな鏡を覗き込んだ。だが、目蓋も目尻にも泣
いたような形跡は見あたらない。
まさか夢のように雨が降ったわけでもないだろうにと足元へ目をやると、薬を置
いているお盆の上に、信じられない物を発見した。
「お母さん!」
「あらアキラさん、目が覚めたのね」
廊下を走ることなど皆無と言っていいほどの穏やかな息子が、血相を変えて居間
に駆け込んで来たことに軽い衝撃を受けながらも、母明子は片付けの手を休めて
アキラを振り返った。
「さっき進藤が来ませんでしたか?」
触れてはならない秘密を暴くような瞳で、アキラは単刀直入に尋ねた。
「ええ、来てすぐに帰ってしまったのだけれど。あなた、精次さんがお茶を飲ん
でいる間に部屋でお薬を飲んで眠ってしまったでしょう?そう伝えたら、進藤
くん、『顔を見るだけでいいから』って」
「…そうですか」
何かを堪えるように薄い唇を噛むアキラの様子に、明子の表情も曇り始める。
「ごめんなさい、起した方が良かったわね。せっかく進藤くんが来てくれたのに」
「いいえ、そうじゃないんです…おやすみなさい」
まだ何か言いたそうな母親を残し、アキラは自室へと戻った。
もしかして、自分の頬を濡らしたのは、ヒカルの涙だったのではないだろうか。
そう考えると、夢の中で聞いたすすり泣きは現実のものだったと思えてくる。
アキラはお盆に残されていたスペアキーを拾い上げた。
理由は不明だが、ヒカルはこれを故意に置いていったに違いない。
アキラはヒカルの家へ電話を入れようと携帯を手にした。携帯といえば昨日、アキ
ラが病院に運ばれた頃、未登録の相手から何度も電話がかかってきていた。その相
手へ今日二回ほどかけ直してみたのだが、未だ音沙汰はない。
間違い電話だったかと、アキラは履歴からその番号を削除した。
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いつもなら対局三十分前には会場入りするヒカルの姿が今日はまだ見えない。和谷
は辺りを見回した。ヒカルの席は自分の斜め二列前になる。
昨日の出来事を思えば、かなりの痛手を受けたであろうヒカルが本日の手合いを休
むのは仕方がないような気はする。正直、和谷もヒカルとどのように接すれば良い
のかわからない状態なので、そっとしておいてやりたいと思う反面、プロ棋士とし
て病欠以外の理由で対局を放棄するなどという行為には抵抗を感じてしまう。
和谷は腕組みをして入口付近をうろうろと歩き回っていたが、五分前になると観念
したように自分の席に着いた。
午前十時。対局開始のブザーが鳴る。
「お願いします」
礼をして顔を上げると、時間ギリギリで席に着くヒカルの姿が目に付いた。
──進藤…来たんだ…。
和谷は小さく安堵した。ヒカルがどんな顔をしているのかは気になるが、対局に関
しては何も心配していない。
碁盤を前にした時の集中力は誰であろうと凄まじい。世俗のしがらみを一切絶ち、
盤面世界のみを見据え、全力で戦う。それがプロというものだ。
ヒカルなら大丈夫だ。培ってきた絶対の信頼関係がそう思わせる。人の事より自分
が負けては話にならないとばかりに、和谷は碁笥へと手を伸ばした。
休憩時間、ヒカルは声をかける間もなくそそくさと対局場を出て行った。たとえヒ
カルが買い弁だろうと店屋物を注文しようと、話しかけ辛いのは同じなのかもしれ
ないな、と和谷はやるせなさに痛む脇腹の辺りをシャツごと軽く摘んだ。
「和谷、あのまま黒地を守っていけば勝てそうだね」
和谷の盤面を覗いた越智が、珍しく感心したような声を聞かせる。
「無難に受けたら白に根を下ろされちゃってアセッたけど、なんとかそこまで挽回
したぜ。お前はどうなんだよ」
「ボクは…大したことない相手だし」
「お前なぁ」
「進藤も圧勝って感じだね。碁にさせてもらってないよ、相手の人も気の毒に」
気になって和谷もヒカルの盤面を覗く。確かに三十数手目でヒカルの勝ちがほぼ確
定していた。相手がどこまで打ち、どれだけ反撃してくるかが見物ではあるが、相
手のここまでの応手を見る限りでは奇跡は期待できそうにない。
顔を上げると、いつの間にか越智の姿は消えていた。一人だけ食いっぱぐれるわけ
にはいかない。和谷も慌てて対局場を後にした。
意外にも、和谷の方が先に終局を迎えた。ヒカルの相手は四段、初段ごときに翻弄
されたまま終わるのが悔しいのか、最後まで打ちきろうとしている。
和谷はヒカルの後ろに立ってその様子を眺めていた。結果はヒカルの3目半勝ち。
確信していた勝利とはいえ、一心不乱に立ち向かってくる相手には一瞬たりとも気
が抜けない。ふぅ、と息を吐き、ヒカルは肩の力を抜いた。
それも束の間、ヒカルは碁石を素早く片付けると早口で礼をし席を立った。一刻も
早くこの場を立ち去ろうとしているのが手に取るようにわかる。その背中がなんだ
か痛々しくて、和谷は無意識にヒカルを呼び止めていた。
「進藤」
ヒカルは初めて後ろにいた和谷に気が付き、怯えを隠さぬ目で和谷を見つめた。
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まだ対局途中の者もいる。場所を変えようと和谷はヒカルの片腕を引いた。
「誰もいないとこで話そう」
強引に部屋の外へと連れ出そうとする和谷に、
「オレ、話すことなんて何にもねーよ」
とヒカルは一度抵抗した。緩く掴まれた腕を払い落とし、和谷を置いてさっさと靴
を履こうとする。
まただ、と和谷は唇を噛んだ。怯えながらも懸命に威嚇する動物のように、ヒカル
は何もかもを拒絶しようとしている。その姿には見覚えがあった。
──二ヶ月前に逆戻りなんて冗談じゃねェぞ、進藤!
長い間落ち込んでいたヒカルがようやく笑顔を見せるようになって、まだほんの二
週間程度しか経っていないというのに、何者かが再びヒカルを深淵へと引きずり込
もうとしている。前回の悩み元はいくら問い質しても巧くかわされ、結局分からず
じまいだったが、今回の原因はあのCD−Rだ。偶然とはいえ目にしてしまった以
上、見て見ぬ振りなど出来ない。ヒカルもきっと、自分のそういう性格を熟知して
いるからこそ、核心に触れさせまいとして避けているのだ。
「上に行こうぜ」
意を決した和谷は靴を履き、エレベーターに乗ろうとするヒカルの手首を掴んだ。
ヒカルの顔も見ず、階段へと引き摺るように連れて行く。
「行かねェってば!手を離せよ!」
掴まれた手首を上下に振り、ヒカルは和谷の手から逃れようとする。和谷は振り向
き、もう片方の手でヒカルの二の腕を掴むと強引に階段へと引っ張り上げた。ヒカ
ルの体が前のめりになる。倒れまいとヒカルが一歩階段を踏みしめたそのタイミン
グに合わせて、和谷は階段を上った。そのままヒカルを7階、8階、さらにその上
へと誘導する。
ヒカルは和谷に導かれるまま大人しく後をついて来ていた。頑なに暴れれば、和谷
は言う事を聞かせようとヒカル以上に暴れるかもしれない。対局場にはまだ越智が
残っている。越智のいる場所で、下手に騒ぎたくはなかった。
最上階に辿り着くと、和谷は躊躇うことなく重厚そうなドアを開けた。途端、抜け
るような青空が目に飛び込んでくる。まだ少し冷たい五月の風がドアの隙間から建
物の内部に侵入し、二人の体をすり抜けていく。
屋上には誰もいない。それなのに和谷はさらに目でヒカルを上へと促す。視線の先
に目をやると、左側の壁に梯子が設置されていた。そこを登れという事らしい。
ヒカルは溜息をつき、和谷の言うとおりに梯子を登った。和谷もその後に続いた。
このまま屋上で話をしてもいいのだが、いつ誰がやって来るかわからない場所では
落ち着いて話が出来るはずもなく、どう考えても他人に聞かれてはマズイ話になる
と判断した和谷が目をつけたのが、タンク類が並ぶこの場所だった。こんなところ
まで登ってくる物好きな輩はそうそう存在しない。
「──座れよ」
先に腰を下ろした和谷は手荷物をコンクリートの地面に置き、自分の隣を指差した。
ヒカルは半ばヤケクソ気味にリュックを下ろすと、和谷の隣ではなく正面に座り、
居直るように胡座をかいた。
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先に口火をきったのは和谷だった。
「もしかしてお前、脅されてるんじゃないのか」
単刀直入に問う和谷の脳裏に、昨日見た妖しい映像がクリアに甦る。小さな画面の
中でむせかえるような艶めかしい痴態を演じていたのは、確かにヒカル本人だった。
見たこともない表情、聞いたことのない声。
その残像は今も和谷の雄をちくちくと刺激し、体の奥で燻り続けている。
ヒカルは腕を組んだまま黙秘した。口を真一文字に結び、何を問われても決して答
えまいとしているようだった。
「昨日のアレ、偶然見ちまった──悪い。見る気なかったんだ、でも」
言いながら和谷は、ヒカルと初めてキスした日のことを思い出していた。
あの時は自分の感情をぶつけるのに精一杯で全然余裕がなく、「気持ちまでは渡せ
ない」と言いつつも拒むことなく従順に受けとめてくれたヒカルの態度に、和谷は
かなり救われ、感謝したものだった。だが、今冷静に考えてみると、自分を気味悪
がるどころか積極的に舌を絡めてきたヒカルは、さすがに健全な思考の持ち主とは
云い難い。元々男同士のああいう行為に慣れていたからこそ、ヒカルは自分に対し
て抵抗なく普段どおりに接してこれたのだろう。和谷はそう結論付けた。
ヒカルへの切ない恋慕が和谷を駆り立たせ、想いを打ち明けるまでに到ったものの、
和谷にはキスのその先──ヒカルとセックスするなどという覚悟はまだ出来上がっ
ていなかった。ヒカルの体を組み敷く行為は実現不可能な夢で留め、絶対に犯して
はならない過ちだと自分自身をセーブしていた。それなのに、当のヒカルは男に抱
かれ、AV女優ばりに喘いでいるではないか。
ヒカルに遠慮し、キスも我慢して性的欲求を抑制してきた時間を思うと、空しさの
あまり憤りをぶつけずにはいられないが、今のヒカルは魔の手に怯える被害者だ。
差出人不明の封筒に入れられたディスク。
犯人は間違いなくヒカルを抱いている男だ。行為の一部始終を録画し、いつでもど
こにでもすぐにばら撒ける状態にしてあるのだ。
ヒカルの住む世界は狭い。インターネットやマスコミに流さずとも、家庭、同級生、
プロ棋士仲間と片っ端から送りつければヒカルは追い詰められ、勝手に自滅してい
くだろう。ヒカルを潰すことが男の狙いならば、目的達成までさほど時間はかから
ないように思われる。
「早いとこ手を打たないと、大変な事になるぞ。わかってんのか?」
「………」
「アレ撮影したの、お前を、その、抱いてるヤツ…だよな。オレ、お前が男と付き
合ってたなんて信じたくないけどさ」
「付き合ってなんかねェよ!」
今にも火を吹きそうな勢いでヒカルが怒鳴った。やつあたりは承知の上で、堪えて
きた怒りを爆発させる。
「冗談じゃねェ、誰があんなヤツと!!」
「…進藤」
ヒカルのあまりの剣幕に、和谷は自分の思い違いを知る。
じゃあ、ヒカルは一体誰に抱かれているというのだろう?
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