日記 71 - 75
(71)
「花火なんて何年ぶりかな。」
冴木が、楽しそうに言った。冴木だけではなく、皆、嬉しそうだ。
「ねえねえ、早く、こっちつけようぜ!」
一番、はしゃいでいるヒカルが急かした。
「しょーがねーなー。」
記念すべき最初の花火は、三連発の打ち上げ花火だ。シュルシュルと、音を立てて空へ上がっていく。
パンと言う派手な音と共に、火花が散った。その後続けて二回。その度、ヒカルは
「おー」と、感嘆の声を上げた。むろん、大玉の花火とは比べ物にもならないが、これは
これで味わいがある。
幾つか打ち上げ花火を上げた後、和谷は、自分の買った花火をとりだした。
「進藤、これ。」
ヒカルが受け取り、火をつけた。派手な音が聞こえて、落下傘に何かがぶら下がって、
落ちてきた。ヒカルが、走ってそれを拾いに行く。
「ぬいぐるみ?カエルだー。ハハハ…おもしれー。」
ヒカルは、それを和谷達の方に振り回して見せた。
「ねーこれ、どうすんの?」
ヒカルは、カエルのぬいぐるみを和谷に渡そうとした。ヒカルの顔が間近にある。外灯の
ぼんやりとした灯りの下で、ヒカルの唇が妙にくっきりと目に映る。
「和谷?」
ヒカルが和谷の顔を覗き込む。大きな瞳。睫毛も意外と長い。小さな鼻のてっぺんを舐めてみたい。
バカなことを考えている自分に、ハッとして、慌ててヒカルに答えた。
「あ…ああ。やるよ…お前に。」
「…って言われてもさぁ…」
ヒカルが手の中のぬいぐるみと、和谷を交互に見つめた。
「いいじゃん。もらっとけよ。」
「そうそう。似合うぜ。」
ちゃかされて、ヒカルがムッとした顔をする。困った。どんな顔をしても、可愛い。
この無邪気なヒカルが、碁を打つときは別人のようになる。時々―――いや、いつも、
その真剣な眼差しに見とれてしまう。どんな時でも、人を引きつけずにはおかない。
「…お前、碁を打っているときとは別人だな……」
つい、口に出してしまった。ヒカルは、きょとんとしている。
「……?和谷だって、そうじゃん。自分がどんな顔しているか知らないの?」
「伊角さんだって、本田さんだって、みんな別人みたいだぜ?」
ヒカルには、自分の言いたいことの本当の意味は、伝わらなかった。ホッとした安堵の
気持ちもあったが、少し残念にも感じた。
(72)
手合いの日、帰りにアキラに呼び止められた。
「あれ?塔矢、もう終わったのか?」
「進藤こそ早いじゃないか。」
二人で並んで、棋院を出た。二人でいると、会話は自然と碁の話になる。いくら話しても
話したりない。時々、互いの手がぶつかった。ヒカルは、アキラと手をつなぎたいと
思ったが、人目が気になって出来なかった。
突然、アキラがヒカルの手を取った。「…!?」ヒカルは、赤くなって狼狽えた。
「はい。進藤。」
アキラが自分の鞄の中から、何かをとりだしてヒカルの手に持たせた。何…?筒の…??
打ち上げ花火?
「あ……これって…」
ヒカルは、ケラケラと笑いだした。和谷が、ヒカルにくれたカエルのぬいぐるみ。
「なあんだ…知ってたのか。」
アキラも、笑った。「驚かせようと思ったのに」と、少し残念そうだ。
「びっくりしたよ……塔矢がこれを買ったってことに…」
笑いすぎて、涙が出てきた。
「今度、一緒にこれを打ち上げようぜ。」
「それじゃあ、家の前じゃだめだね。」
風が吹き抜けて、アキラの髪が目の前で、サラサラと流れた。髪の隙間から、見慣れた
はずのアキラの横顔が覗く。そこから、視線がはずせなくなった。
いつもと同じ道。他愛のない会話。それなのに、胸がドキドキした。本当に自分は
いつになったら、このドキドキから解放されるのだろう。いつまでたっても、慣れないのが
不思議だった。
(73)
分かれ道にさしかかった時、別れがたくて、暫くそこで立ち話をした。どうでもいいような
話を…。ヒカルも同じ気持ちらしく、アキラの言葉が途切れると、慌てて、別の話題を
振ってくる。このまま一緒に連れて帰りたかったが、ヒカルは、祖父と約束があると
言っていたので、今日は誘っても来ないだろう。
いつまでも、こうしていても仕方がないと思ったのか、ヒカルが名残惜しそうに別れを
告げた。
「じゃあ、塔矢。また、電話するよ。」
ヒカルが走った。明るい金茶の前髪が跳ねて、沈みかけた陽の光に透けて見えた。
ヒカルは、振り返って、大きく手を振った。
「塔矢――――っ これサンキュウな!」
手の中には、花火の筒がしっかりと握られている。そして、また駆け出す。
アキラは、ヒカルが見えなくなるまでその場で見送った。ヒカルの髪を輝かせていた
太陽もすっかり沈み、空は薄紫から濃紺へのグラデーションを映していた。
ヒカルに夏はよく似合う。花火、風鈴、海…。今度は、二人で海に行ってみたい。今年の
夏には間に合わないかもしれないけれど―――――歩きながら、楽しい計画が色々と
頭に浮かんだ。お互い忙しいので、実現する可能性はかなり低いが、でも、こうして
考えるだけでも楽しかった。
(74)
アキラには同じ年頃の友人はいない。強いて上げるなら、ヒカルだが、アキラにとって、
ヒカルは友人ではなく恋人だ。親しい人たちは、自分よりずっと年上だし、アキラを
可愛がりこそすれ、対等に見てはくれない。碁のことを抜きにすれば、自分は彼らに
甘やかされていると思う。
だから、友達同士の付き合い方や、遊び方が、よくわからない。
どうすれば、ヒカルを喜ばせることが出来るのか――――いつも、考えてしまう。
さっきの花火にしてもそうだ。ヒカルの喜ぶ顔が見たかった。
進藤があの花火を知っていたのは、ちょっと残念だったな……
それでも、十分嬉しそうだったのだが…。そう言えば、花火大会をしたと言っていた。
その時、誰かが持ってきていたのだろう。
アキラは、ふと和谷のことを思い出した。いつも、挑むような目をして、自分に突っかかってくる
ヒカルの一番の友達。ヒカルと同じように、夏がよく似合いそうだ。どうして、彼は
自分を敵みたいに見るのだろうか。アキラは、和谷に嫌われるようなことをした覚えはない。
和谷だけではない。いつも、自分は人に嫌われる。その理由はわからない。
だから、誰からも好かれているヒカルが、自分を好いていてくれることがものすごく嬉しい。
碁のことだけを考えて、それ以外の世界をアキラは知らなかった。ヒカルを知ってから、
世界が開けたような気がする。ヒカルがアキラを知って変わったように、アキラもヒカルを
知って変わった。変わるのは悪いことじゃないと、ヒカルは言っていた。自分もそう思う。
子供っぽいこと言ったり、拗ねたり、嫉妬したり、強引だったり。
―――――それから、大声で笑ったり……。
およそ、今までの自分では考えられないことばかりだが、それが楽しい。
「早く大人になりたいんだけど…当分無理かな…」
今度、いつ、ヒカルに会えるのか…その時、一緒にあの花火を打ち上げよう。とても楽しみだ。
(75)
風呂上がりの濡れた髪を拭きながら、ヒカルはチェストの上に飾ったカエルのぬいぐるみを
手に取った。
それから、リュックの中から、アキラにもらった花火を取り出し、それと交互に見比べる。
「へへ…」
自然と笑みが零れた。和谷のくれたカエルは、オーソドックスなグリーンだ。ヒカルは、
花火の筒を電灯に透かしてみた。
「見えるわけねーよな。」
カエルの色は、皆同じなのだろうか?それとも、いろんな種類があるのだろうか?
アキラがくれたというだけで、こんなに嬉しいなんて…。
「いつ、会えるのかなぁ…」
夏が終わる前に、これを打ち上げる機会があればいいのだけれど、アキラの都合はどうだろう。
チェストの上に、二つを並べた。そして、生乾きの髪のままベッドの上に、ごろりと
横になった。
目を閉じて、アキラのことを想う。アキラは、あの風鈴を吊しただろうか?この部屋を
吹き抜ける風が、同じようにアキラの部屋の風鈴を揺らしているだろうか?そんなことを
考えている内に、いつの間にかヒカルは眠ってしまった。堅く澄んだ音が、遠くで
聞こえたような気がした。
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