失着点・展界編 71 - 75
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和谷自身、決して楽に戦えるとは思ってはいなかった。この数日間、死にもの
狂いで塔矢アキラの戦績を繰り返し並べてきた。だが、ここまでのアキラの
早碁に真正面からぶつかったことはなかった。
「ク…ッ」
それでも出来るだけ食い下がる気でいた。先番と言う微少な有利さも最大限に
利用するつもりだった。だが、そんな和谷の戦意は、始まって僅か数分で
別のモノに塗り替えられて行く。パンッとアキラの石が一つ置かれる毎に、
和谷の戦略構想は一気に枝打ちされていく。数手先、数十手先を見越した情け
容赦のない詰み。呼吸することさえも許さぬように和谷を追い詰めて来る。
和谷の石を持つ右手が、ドクンドクンと脈打つ。痛みでは無く、到底
かなわない相手を前に手にした剣を下ろせないでいる葛藤によるものだった。
頭ではもう分かっている。勝てないと。ほとんど手数がない盤面がすでに
その事を示していた。歯噛みをしながら和谷はアキラを見た。
無表情な程に阿修羅に近い棋士が、目の前に座してこちらを見下ろしている。
…何故だ、
と和谷は思った。なぜ、こんな魂と同じ世代にこの世に生まれてきて
しまったのか。この先一生、全てにおいてこの者の下に従じるしかないのか。
なぜ、塔矢アキラは進藤ヒカルを選んだのか。
それでも、震える指先で石を盤上に運ぼうとした。
「まだ、打つ気かい…?」
アキラの声で、冷ややかに、そう聞こえた気がした。
和谷は歯を食いしばり右手を振り上げた。次の瞬間激しい音が室内に響いた。
石を置くのでは無く、和谷は右手を碁盤に激しく打ち付けていた。
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盤上から石が落ちた。対局者達が驚いて一斉に和谷とアキラを見る。
棋院の手合いの立会人が駆け付ける。
「わ、和谷君…!?何だね、その態度は…」
そう言いかけてアキラに制するように睨まれ、口籠り、引き下がって行った。
…ありません、とわずかに和谷の口が動いた。
アキラは眉一つ動かさずそれらを見届けると無表情に小さく一礼し、碁石を
片付ける。
まだ傷跡や腫れが残り色が変わっている和谷の右手とは対照的に盤上を動く
しなやかで白く美しいアキラの手は、何ものも寄せつけない高貴さを
持っていた。和谷には絶対得られないものを、その手が得るのだ。
ヒカルも伊角も二人の終局を感じ取り、ヒカルも自分の方を急いだ。
相手はアキラ達の様子に気をとられていた事もあり、間もなく中押しした。
伊角はヒカルとは違ってあくまでマイペースで打ち続けていた。
「和谷…後は…お前次第だ…」
そう小さく呟いた。
アキラは結果表に書き込みをすると、まだ座り込んでいた和谷に声を掛ける。
「聞きたい事があるんだけど…いいかな。」
和谷もそれを予測していたようだった。ヒカルは石をしまいながら、二人が
出て行くのを見て、結果を書き込み、後を追った。
廊下に出て、二人の行方を探す。普段人があまり来ない奥まった方の階段の
踊り場に、彼等はいた。
「…進藤に、何をした。」
アキラが感情を押さえた声で和谷に問いていた。
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ヒカルの足が止まった。アキラは和谷を壁際に追い詰め、繰り返す。
「進藤に何をした。」
対局を上回るようなアキラの気迫に、和谷はうっすらと笑みを浮かべた。
「…進藤に聞けばいい。」
アキラが和谷の襟首を掴んだ。和谷は笑みを浮かべたままだった。
「…元名人の息子が、棋院会館の中で暴力を振るっていいのかい…?」
アキラが動くより先にヒカルがアキラの右腕にしがみついた。
「進藤に…何をした!」
アキラが声を荒げた。ヒカルを振払おうと動き、ヒカルはただ必死に
しがみつく。今ここで、和谷の口からあの事をアキラに言われたら、
それこそ取り返しのつかないことになる。どうにかしてアキラを和谷から
引き離さなくては。その時、和谷が口を開いた。ヒカルは目を閉じた。
「…何もしてねえよ。」
「えっ」とヒカルは驚いた。アキラは和谷を睨んだままだった。
「何もしていねえよ。ただ進藤に宣言していただけさ。今日お前に勝って、
お前から進藤を奪うって…。それだけだよ。」
アキラの腕から、荒々しい力が抜けた。ただ、和谷の言葉を全面的に
受け入れた訳ではなさそうだった。それでも、ヒカルは和谷の襟首から
アキラの左手を外させた。アキラの手はわずかに震えていた。
ヒカルがその手を両手で包むと、ようやくアキラはヒカルを見た。
「少し、落ち着けよ、塔…」
そう言いかけたヒカルの唇にアキラは自分の唇を重ねた。
和谷に見せつけるように。
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ヒカルは驚いてアキラから離れようとしたが、すばやく両腕で抱き締められ
首の後ろから押さえ付けられて身動きできなかった。
いつもの通りのままのキスをされて、仕方無しに、目を閉じ、ヒカルは
アキラの舌を受け入れる。アキラを宥めるにはそうするしかないと思った。
だがアキラは冷静だった。ヒカルの舌を吸いながら横目で和谷を睨みすえる。
…お前ごときが、ボクから進藤を奪えると本気で思っているのか?
そういう、視線だった。
対局を終えた伊角がいつのまにか来ていて、その様子を冷ややかに見ていた。
和谷から表情が消え、無言で二人の包容から目を逸らす。するとようやく
アキラもヒカルの唇を離し、ヒカルの肩を抱いて立ち去ろうとした。
「…あっ…」
アキラの力は強く、有無を言わせないところがあった。だが、壁に寄り
掛かってやっと立っているような和谷を、そのままにしておけなかった。
「待って…!塔矢…!」
アキラはちらりとヒカルを見たが、無視して歩いて行こうとする。
「塔矢!!」
ヒカルは怒鳴ってアキラの腕を振りほどいた。
「…すぐ行くから、少しだけ和谷と話をさせてよ…。」
和谷の方を見ると、伊角が和谷に寄り添い、肩に手を掛けていた。
「伊角さん…」
「伊角…?彼が…?」
ヒカルが呟いた名前をアキラは問い返した。中国で一度伊角の名を耳にした。
日本から中国棋院に来てとても熱心に学んでいった人だと聞いている。
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その時、棋院の事務の人が、アキラの姿を見つけて呼びに来た。
「アキラくん、会報に載せる文章の事で、外で少し打ち合わせできるかい?」
アキラはハッとなった。
「今はちょっと…」
そう言いかけたのをヒカルが遮った。
「行ってこいよ、仕事だろ。大丈夫だよ、伊角さんもいるし…。夜行くから、
…待ってて…。」
アキラはもう一度和谷の方を見た。和谷の側にいる伊角という人を、ヒカルも
信用しているのならば、と納得したようだった。
ヒカルはアキラと別れて和谷のところに戻った。だが和谷はヒカルの方を
見ようとしない。完璧なまでにアキラに叩きのめされ、心を閉じてしまって
いるかに思えた。すると、フッと和谷の口元が弛んだ。
「完璧なオレの負けだ…!!、あーあ、」
と両手を突き上げ背伸びをした。そんな和谷にヒカルは少しホッとした。
「あんな気迫のこもった一手一手、初めてだ。お前らに見せてやりたいよ。」
伊角が和谷の背中をポンポンと叩く。そして二人で歩き出しかけて、伊角が
ヒカルに振り返った。
「進藤、…もう少し、和谷につき合ってやれ。」
「え…?」
「検討会をしよう。それでお終いだ。…大丈夫、オレも一緒だから。」
「検討会…?どこで…?」
会場から出て来る対局者達は、和谷を見てボソボソ何か話している。
棋院会館内はやめた方が良さそうだった。
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