とびら 第五章 71 - 75
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不快そうな声にヒカルはびくついた。こういうときのアキラは本当に怖い。
「そんなに緒方さんとのキスは良かった? 臭いを染みこませるほど、たくさんしたんだ?
邪魔だったのはボクのほうだったんだ?」
「ちがっ! そんなこと……いたっ!」
首筋に噛み付かれ、ヒカルは思わずアキラの頬を叩いた。
アキラは叩かれたままのかっこうで、うつむいている。髪がかかっており、表情が見えない。
「ご、ごめん、塔矢……」
「何を謝っているんだ? 叩いたことを? それとも和谷だけでなく、緒方さんのことも、
ボクに我慢しろということを?」
「オレは緒方先生とする気は少しもないぞ!」
「本当に? でもきみは嫌がらなかったみたいじゃないか」
アキラは緒方の言葉にすっかり捕らえられていた。
緒方は己の言葉がアキラに影響を与えることをよく知っているのだ。
そしてこういうふうにヒカルを問いつめることもわかっていたのだろう。
だから二人を残してあっさり帰っていったのだ。
「おまえはオレよりも、緒方先生を信じるんだな」
アキラがわずかにひるんだ。視線がヒカルからそらされる。
「そんなことは……」
はっきりと打ち消さないのにヒカルは苛立った。
「何だよ、言えよ。オレなんか信用できないって。そんで緒方先生のところにでも行けよ」
「ボクはきみ以外の誰のところにも行く気はない!」
アキラの声が部屋の空気を激しく震わせた。その剣幕にヒカルはたじろいだ。
「けどきみはボクが誰のところに行こうがどうでもいいんだよね。きみがそばにいてほしい
のは、ボクでも和谷でもないんだから。きみが」
「塔矢、やめろよっ」
ヒカルは叫んだ。アキラがとんでもないことを口走るような気がした。
「きみが求めているのは」
「やめろ!」
ヒカルは両手で耳を思い切りふさいだ。
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アキラが誰と言ったかは聞こえなかった。しかしヒカルはわかっていた。
わかっていたから、聞きたくなかった。
アキラはヒカルを凝視していた。ヒカルはアキラの視線を受け止めた。
耳鳴りがする。
手を外しても、アキラは何も言ってこなかった。
ヒカルはうつむき、ぼたんが外れているのに気付いてもう一度それを嵌めなおした。
「やっぱり、ボクはだめだ」
顔をあげると、瞳に悲痛な色を宿してアキラが自分を見ていた。
「きみが和谷とボクを選べないと言ったとき、ボクは本気でそれでもいいと思った。きみが
そばにいてくれるなら我慢できると思ったんだ。でも昨日みたいにきみの身体を他のやつが
触れたということを見せつけられると、嫉妬で気が狂いそうになる。ボク以外の誰かがきみ
に触れるのは、やっぱりすごく嫌なんだ。嫌でたまらないんだ」
アキラのその心情は前からわかっていたが、やはり面と向かって口に出されるとこたえた。
だが堰を切ったようにアキラは話し続ける。
「それに怖いんだ。きみの――――影が、怖い。きみを連れて行ってしまいそうで、怖い。
和谷や緒方さんや他のどんな人よりも、ボクはきみの影が恐ろしい」
ヒカルは “影”が何かとは尋ねなかった。黙ってアキラの言葉を聞く。
「かなわないという気にさせられる。ボクはきみが好きだ。この気持ちは揺らがない。でも
戦う勇気を持ち続けていられるほど強いわけではないんだ」
そんなにも色濃く自分についているのだろうか。アキラが恐れるほどの“影”が。
ヒカルは自分が昂揚するのを感じた。
「きみは“影”がついていてうれしいんだろうね」
寂しそうな笑みをアキラはもらした。
ヒカルはぎくりとした。自分でも気付かなかった感情を言い当てられた気がした。
「きみがボクを見てくれるなら、ボクはずっとその影と戦いつづけることができる。でも他
ならぬきみがボクを少しも見ていないんだから、どうしようもできない」
「なに言ってんだよ。オレちゃんとおまえを見てるぜ」
弱々しく首を左右に振ると、アキラはヒカルの手を取った。
指先が氷のように冷たかったが、触れる前からわかっていたのでヒカルは驚かなかった。
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いつも自信を持って背筋を伸ばしているアキラが、今はひどく頼りなく見えた。
ヒカルはアキラの言葉を胸の中で反芻した。一つ一つがずしりと心の奥底に沈みこむ。
しかしそれ以上のものをアキラは溜め込んでいるのだ。
うぬぼれではなく、それを消せるのは自分しかいないと思う。だが方法がわからない。
なにを言ってもアキラを傷つける気がした。ヒカルが佐為を引きずっているかぎり。
(……オレは自分の中の佐為を捨てることはできない)
つまりアキラとはずっと平行線のままということになる。
それならいっそ、すっぱりアキラを切り離してしまったほうがいいのかもしれない――――
アキラが握っていたヒカルの手を放した。
「ボクのことを切り離すか?」
まるで自分の思考を読み取ったかのような台詞にヒカルは動揺した。
アキラは何もかも消耗してしまったかのような笑いを浮かべる。
「きみはボクを選ばない。だってきみはボクといても楽しくないだろう? ボクはおもしろ
い会話なんてできないし、それどころか、きみを不愉快にさせてばかりいる。どうせ和谷と
ボクの二人ともをきみは必要としてないんだ。なら一緒にいて楽しい和谷を選ぶのは当然だ」
その断言に、ヒカルは瞬時に頭に血がのぼった。
「何だよそれっ。何でおまえが言い切るんだよ! いいかげんにしろよ!」
激昂しながら、なぜこんなにも自分が腹をたてているのかわからなかった。
「進藤、怒ってるのか? 怒りたいのはボクのほうだ。いつまでも影にしがみついてボクを
見ようともしないきみが腹立たしい」
ヒカルは言葉を詰まらせた。アキラの怒りはもっともだった。
「でも何よりも、それをどうすることもできない自分が一番腹立たしい。そして滑稽に思う。
ボクを選ばないきみをあきらめられない自分がね」
「塔矢、オレは……」
「聞きたくない」
短い拒否の言葉に、ヒカルは口を閉ざした。
「もう帰ってくれ。このままだと、ボクはきみを」
顔を上げたアキラの瞳が、鈍く光っていた。肌が粟立つ。
「殺してしまいたくなる」
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冷たい風が顔に吹きつけてくる。ヒカルは暗い気持ちで棋院への道を歩いていた。
(飛び出さないで、もう一度あいつに話しかければ良かった)
だがヒカルはアキラのあのまなざしにすくみ、それ以上は耐えられなかった。
あのままそこにいたら、本気でアキラは自分を殺そうとするように思えた。
しかしあそこまでアキラを追いつめてしまったのは自分なのだ。
「進藤、何でいるんだ?」
棋院に着いたとん、聞きなれた声が聞こえた。和谷と冴木が驚いたように自分を見ている。
自分も同じようにびっくりした表情をしているに違いない。
「和谷こそ何でいるんだよ」
「俺たちは森下先生のおつかいで来たんだ。で、おまえは?」
和谷が駆け寄ってきて、すぐにヒカルの目の前に立った。
「別にちょっと来てみただけ」
「ちょっと〜? 変なやつだな。あ、もしかして……」
和谷が声を落とした。
「昨日、何か忘れ物したのか」
からかうような、しかしどこか照れくさそうな、そんな表情を和谷はした。
和谷は知らない。先ほどまで自分がアキラの家にいたことなど。
「よお進藤。今からなんか昼飯を食べに行こうと話してたんだけど、おまえも行かないか?
おごってやるぞ。まあたいしたもんじゃないけどな」
「そうだよ、一緒に食いに行こうぜ」
うれしそうに和谷は顔をほころばせ、もう決定だと言うようにヒカルの腕をつかむ。
「え、でもオレ、そんな気分じゃ……」
「なに言ってんだよ、いいじゃん、行こうぜ」
「進藤、和谷はおまえと食べたいんだよ。だってこいつおまえのことすごい思ってるんだぜ。
昨日なんか、今度の森下師匠との対局、俺に……」
「冴木さん! 余計なことを言うなよっ」
和谷が顔を真っ赤にしてさえぎった。すると冴木はこらえ切れないというように笑った。
じゃれあう二人をヒカルはぼんやりと見ていた。
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冴木と和谷のあいだになぜか入ることができない。いつもはそんなことはないのに。
緒方とアキラの影響だろうか。おとうと弟子と兄弟子というものに、何だか萎縮してしまう。
本当の意味では和谷も冴木もヒカルの兄弟子ではない。だからかもしれない。
(オレの兄弟子って言ったら、虎次郎になるのかな……実感わかねえな)
師匠も兄弟子もとうにこの世にいない。そういうものから自分は切り離されているのだ。
(一人……オレは一人なんだ……)
暗い思考に沈みこみそうになっていたヒカルを、和谷の声が引き戻した。
「今度イベントがあるんだって。それに俺とおまえ参加するんだ」
話しかけられてヒカルは少し安堵した。
「何だよそれ。オレ聞いてないぜ」
「俺もついさっき事務所で知ったんだよ。今度おまえにも連絡来ると思うぜ。ところでさ、
こういう仕事を一緒にするのは初めてだよな」
「うん、そうだな。で、それっていつ? 場所は?」
「三月だってさ。場所はなんか関西のほうらしいぜ。急に決まったらしくて、まだ詳しくは
俺も教えてもらえなかった」
「ああ、北斗杯関係じゃないのか? おまえらはおもしろそうなのがあっていいよなあ」
冴木が心底うらやましそうに言う。
「オレ、すげぇ楽しみなんだ。韓国とか中国のやつらって強いんだろ? 早く打ちたい」
「すでに代表に選ばれたような口ぶりだな、進藤」
笑いながら冴木がヒカルの額を小突いてきた。ふと和谷が硬い表情をしているのに気付いた。
「和谷、怖い顔してるぜ。どうしたんだよ」
「あ、いや俺は……」
歯切れが悪い。ヒカルが覗き込むと和谷はあからさまに視線をそらした。
「和谷?」
「腹が減ったんじゃないのか? 早く食いに行こう」
冴木の言葉に和谷は無言でうなずいた。ヒカルは困惑してそんな和谷を見つめた。
また自分はとんでもないことを言ってしまったのだろうか。
――――傷つけてしまったのだろうか。
背筋が震えたのは寒さのためではなかった。
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