とびら 第六章 71 - 75
(71)
ちぎれるような痛みが腕にはしった。つづいて頬にも激痛がした。
ヒカルは咳き込んで水を吐き出した。
「なにをしているんだ!」
顔を上げて一瞬、佐為かと思った。
なぜならその瞳にあまりにも酷似していたからだ。しかしもちろん佐為のはずがなかった。
口のなかで、「塔矢」とヒカルはつぶやいた。
ヒカルは水風呂のなかにいた。身体は完全に冷え切っていた。
アキラが怒ったふうにヒカルを引っ張りあげる。そしてまた頬を叩いた。容赦がない。
夢の余韻が一気に消え去っていく。
「痛ぇよ!」
わけもなく叩かれる理不尽さにヒカルは怒った。しかしアキラはひるまなかった。どころか
冷ややかに見返してくる。
「目は覚めたか? ふらふら歩いていって、水に飛び込むなんて、どうかしている。きみは
死ぬ気か!?」
ヒカルはその剣幕に気圧されながらも、違うと首を振った。
「死にたくなんかなかった。オレは碁が……」
言いかけて口を閉じた。まるで自分の言葉が佐為のもののように感じられたのだ。
(あいつは死にたくなかった。そのつもりだったとしても、あいつは)
佐為の叫びがヒカルを貫く。最期まで佐為は碁を打ちたがっていた。
しかしその身を引き上げるものは誰もいなかった。みな佐為から離れていっていた。
宮中での佐為の交友関係は、すべてうわべだけに過ぎなかったのだ。
(佐為は本当に一人だったんだ……)
ヒカルも自分には誰もいないと、一人だと、そう思っていた。
しかしそれは間違いだった。自分にはこうして必死で走りよってくれる者がいた。
ぶたれた頬が熱い。
ヒカルは突然、なにかが目のまえでひらいた気がした。
(オレは佐為と一緒だった。でもオレがめざしたのは、求めたのは佐為じゃなかった)
目の前にいる少年を、塔矢アキラを、ヒカルは追っていたのだ。
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アキラを追う自分の姿が次々と脳裏に浮かんできた。
小学生なのに偽って出た、冬の囲碁部の大会。ヒカルはアキラを追いかけようと決意した。
中学校まで訪ねてきたアキラを追い返したのも、その決意のためだった。
そしてアキラに幻滅された、夏の大会。佐為に打てと言った。しかしアキラとの差が知りた
くて、ヒカルは佐為の指すところを無視して自分の思うところに石を置いた。
思えばすでにこのとき、ヒカルは佐為から離れはじめていたのだ。
だがそのことにずっと気づかなかった。
ネット碁に没頭した中学一年生の夏。それもアキラとの対局を最後に終わった。
そしてプロになったアキラを追いかけるために、ヒカルは院生になることを決めた。
院生試験のとき、ヒカルはアキラの名を幾度も心のなかで呼んだ。それには追いつくことの
できない焦りと不安、もどかしさがまじっていた。
院生になっても、それが消えることはなかった。
だがそんな自分の前に、アキラは現れた。無言で「待ってる」と告げられた気がした。
アキラの新初段シリーズ。その碁からヒカルはさらにアキラを追う気持ちを強めた。
若獅子戦。アキラとは対局できなかったが、何かてごたえのようなものをつかんだ。
そしてプロ試験がはじまった。その越智との最終戦、ヒカルは強くアキラを意識した。
越智の背後にいるアキラに、ヒカルは必死で挑んだ。アキラのまえに堂々と立ちたかった。
プロになったとき、それは果たされると思った。だがそれは甘い考えだった。
先を見ているアキラにとって自分がプロになったことなど、たいしたことではなかったのだ。
追いつき、追い越すことができないようでは、アキラは自分を見てくれない。
(そうだ、見てほしかったのはオレのほうなんだ)
佐為ばかりを見るアキラの目を、振り向かせたかった。
だから新初段シリーズがヒカルは楽しみだった。自分の実力を見せるチャンスだと。
なのにそれは佐為によってつぶされた。
(佐為……)
佐為と自分のあいだに微妙なずれを感じたのは、このころからだった。
ヒカルは佐為に苛立ったりした。それでも、いなくなってほしかったわけでは決してない。
しかしとうとう佐為は、ヒカルの前からその姿を消してしまった。
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佐為を失って、ヒカルは本気で囲碁を捨てようと思った。
だがそんなヒカルを、アキラは引き戻した。
アキラしか、自分を引き戻すことはできなかっただろう。
ずっとヒカルはアキラのことを意識していた。
囲碁部のときも、院生のときも、プロ試験のときも、そしてプロになった今も。
だれよりも、佐為よりも、自分はアキラを求めていたのだ。
碁を始めるきっかけを与えてくれたのは佐為だ。
しかし本気にさせたのは、佐為ではなくアキラだった。
「こんなに身体も冷えて。とにかく早く拭こ……進藤!?」
ヒカルはアキラにむしゃぶりついた。その勢いのまま二人は倒れこんだ。
頭をぶつけたのだろう、アキラが痛そうな声をあげた。
しかしヒカルはその胸に顔を押しつけ、うなるような声を出した。
「おまえ、自分を見ていないだなんて、よく言えるな。オレはずっとおまえを見ていたんだ。
おまえしか見ていなかったんだ!」
ヒカルは乱暴にアキラの唇にかみついた。このまま食いちぎってやりたい。
(塔矢と会わなければ、オレはずっとあいつといられたのに)
この憤りは、アキラに向けるべきものではない。わかっているが止められない。
アキラは痛みに顔をしかめているが、それでもヒカルを押しのけようとはしなかった。
血の味を感じて、ようやくヒカルは唇を離した。
「……オレは神様に願った。初めに戻してくれって。でもだめなんだ。オレはくりかえす。
だって絶対オレは、自分で打ちたいって思ってしまう」
アキラに出会うかぎり、それは決して避けられないことなのだ。
(ごめん、佐為……ごめん……)
罪悪感にヒカルは打ちひしがれる。そんなヒカルにアキラは解せない表情をした。
「なにを言っているのかよくわからないが、そう思うことのどこが悪いんだ?」
「おまえにはわかんねえよ!」
その気持ちを抱いたために、佐為を失ってしまった自分の悲しみなど。
「……打ちたいと思うのは碁打ちのサガだ。そして」
アキラはヒカルの両頬をはさみ、その瞳をとらえた。
「きみは碁打ちの目をしている」
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ヒカルは虚をつかれた。
吸い寄せられるように、その顔に見入る。アキラの視線とぶつかった。
そうだ、佐為と同じ目を持つ者はあの塔矢行洋だけではない。
アキラもそうなのだ。自分を惹きつけてやまない、この瞳――――
「なんだ、そうか……オレってほんと、バカだ……」
ヒカルは肩を揺すって笑った。涙が出そうだった。
前髪をくしゃりとつかむ。
(とっくに選んでいたんだ。ずっと一緒にいたかった佐為よりも、オレは塔矢を選んだんだ)
そんな自分に、佐為は笑って扇子を渡してくれた。アキラと本当の意味で、初めての対局を
した日の夜のことだ。
ヒカルはそれを受け取り、佐為は遺志を受け継ごうと思った。しかし心のどこかで無意識の
うちにうしろめたさを抱き、ヒカルはアキラと和谷のなかにその影を求めてしまった。
自分の心が弱い証拠だ。
強くなりたいと、だれよりも強くなりたいと、切に願う。それは碁のことだけではない。
アキラに伝えるべき言葉がある。ヒカルは深く息を吸った。そして吐き出しながら言った。
「オレはおまえ以外、だれも選べないよ」
アキラが愛しいと、ヒカルは純粋に思った。その想いは言葉のはしばしに表れていた。
しかしアキラはその顔におびえの色をにじませた。
ヒカルを突き飛ばすと、恐ろしいものでも見るような目つきをした。
「塔矢?」
その肩が不自然に大きく上下している。なにかひどく混乱しているように見えた。
「きみはおかしくなっている」
やっと口に出された言葉は、ヒカルの気に障るものだった。
「……オレはおかしくなんかなってねぇぞ」
「飛び込んだとき、きっと底に頭をぶつけたんだ。それかセックスのしすぎで、思考が変に
なっているんだ。でなきゃ、きみが言うはずがない。ボクを……」
それが忌むべきもののように、アキラは言葉を切った。
無理もない気がした。これまで自分のしてきたことを思えば。
だが信じてほしかった。アキラを失いたくなかった。
ヒカルはアキラの手を握った。冷たいその手を、離したくないと心のそこから思った。
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「おまえが好きだよ、塔矢」
佐為にしか言えない気がしていた言葉は、すんなり口から出てきた。
思えば、初めての台詞かもしれない。
今まで和谷にもアキラにも、まるで戒めのように言わなかった気がする。
それがやっと解かれたのだ。もう一度くりかえしてみる。
「塔矢が好きだ」
しかしアキラはむち打たれたように身体をびくつかせていた。
ヒカルは不信感をあらわにしているアキラに―――いや自分にかもしれない―――言い聞か
せるように話し出した。
「オレがプロになるまで、おまえと会ったのはほんの数回だ。しかも口をきかなかったのが
ほとんどだ。けどオレ、いつもおまえを感じてた気がする」
四六時中、佐為とは一緒にいた。だがアキラとも共にいた。
それは佐為よりも、アキラとの結びつきが強いことを意味しないか。
自分の人生に、もはやなくてはならない存在は、佐為ではなく塔矢アキラだったのだ。
胸をつかれるほどの痛みを感じたが、それが真実なのだとヒカルは認めた。
「オレは大切なものを全部、なくしたわけじゃない。オレには塔矢、おまえがいるんだ」
アキラにも自分がいる。お互い一人ではないのだ。
「進藤、それって……」
ようやくアキラの頬に赤みがさしてきた。戸惑うようにヒカルをのぞきこんでくる。
その横髪がくすぐるようにヒカルの頬にかかる。それさえもが好ましい。
ヒカルは顔をほころばせると、全身の力を抜いた。
すると自然に身体がかたむいていき、アキラに倒れかかった。
「進藤!?」
「眠いから、寝る」
「え? ちょっと待て、進藤。まだ話が……」
揺すってくるアキラを無視して、ヒカルはまぶたを閉じた。
夢のなかに入っても、佐為は出て来ないだろう。
でも別にそれでよかった。
佐為は他ならぬ自分のなかにいるのだから。
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