平安幻想異聞録-異聞- 75 - 76


(75)
ヒカルは、この夜着のまま外に行くわけにいかないのに気付き、勝手に賀茂の家の
納戸をあさって、薄い縹色の狩衣と、明るい鼠色の指貫を拝借する。
そして忘れずに、自分の太刀を腰に履く。
ヒカルはもう一度だけ、アキラの部屋に戻ってその寝顔を眺めた。
座間はすでに、ここまで先を読んでいたのかもしれない。いや、この更に先だって。
(もしかして、あの竹林の夜以来、自分も、佐為も、賀茂も、座間の手の上で
 踊っていただけなんじゃないだろうか)
ヒカルはそんな考えに襲われて、悪寒に震える自分の体を抱きしめた。
でも、後には引けない。
これが座間の望んだ展開なのだとしたら、奴が最終的に何を求めているのか、
自分が確かめなくてはならない。佐為の命か。アキラの命か。あるいは自分の…。
「賀茂。お粥、美味しかった」
ヒカルは、一言つぶやいて、アキラの部屋を後にした。


翌日、佐為は内裏で信じられないものを目にした。
取り巻きと衛士を引きつれ、5人ほどでゾロゾロとそぞろ歩く座間一行、
その取り巻きの中、座間のすぐ後ろにうつむきながら歩く少年の見慣れた金茶の前髪。
思わず足が止まった。
少年の手首に、傷の手当てをしたらしい布が巻かれていた。
そこにはまだ新しい血が僅かに滲んでいるのが見える。
「ヒカ…」
「おやおや、佐為殿、ご機嫌はいかがかな」
呼びかけた佐為の言葉を座間が遮った。
「ほう、佐為殿、何やらお顔の色が悪いようじゃが、大丈夫であられるかの?」
「近頃は風邪が流行りのようじゃ。お気をつけ召されよ」
菅原が笑い、座間も上機嫌で扇で顔を仰ぐと、佐為の方を何やら意味あり気な目で
見ながら通り過ぎた。
検非違使の少年も、それにならって、うつむいたまま足早に佐為の横を通り抜ける。

――ヒカルはついに、一度も佐為の方を見なかった。


(76)
既に日は傾き、雲が金色に染まりかけている。
アキラの家を出たヒカルは、徒歩で座間の屋敷へと向かった。
並の貴族では手に入れることのできない見事な書院造りの屋敷。
大きな門の前に行き、使用人らしき男を呼び、用件を告げる。
「座間様はただいま、内裏の方に出仕しておいでで、夜までお帰りになりません」
検非違使風情がたったひとりで、天下の座間様になんの用かと男が眉をひそめる。
だが、ヒカルが自分の名を告げると、思い当たったように頷き、
「座間様から聞き及んでおります。近衛様がいらしたら、中にお通しして
 おくようにと」
と、あっさり中に入れてくれた。
やはり、座間はこうしてヒカルがここを訪れることなど予想の内だったのだ。

通された客間で、ヒカルはじっと座って座間の帰りをまった。
半刻ほども、壁を睨みつけるようにしてそうして座っていただろうか?
屋敷の門のほうがにわかに慌ただしくなり、部屋の御簾が侍女の手によって上げられ、
座間が入ってきた。後ろに菅原も付き従っている。
「これはこれは検非違使殿、よう来られた。しかし儂は、そなたに嫌われているかと
 思っておったが、どういう風の吹き回しかのう」
「そんなの……お前が一番よく知ってるだろ!」
ヒカルは思わず声を荒げていた。ヒカルの前に腰を下ろしながら、座間が口の端を上げて笑う。
「はてさて、検非違使殿は何を言っておられるのか? わかるか、顕忠?」
「いや、私めにはさっぱりです」
座間の後ろに立つ菅原が相づちを打った。
「ふざけんなよ、あれをオレにけしかけたのは、お前らだろ!」
「ほう、いつになったらと思って楽しみにしておったが、ついにあれが行ったかの」
脇息に体重をあずけながら、あっさりと言う座間に、ヒカルが唇を噛んだ。



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