平安幻想異聞録-異聞- 75 - 80
(75)
ヒカルは、この夜着のまま外に行くわけにいかないのに気付き、勝手に賀茂の家の
納戸をあさって、薄い縹色の狩衣と、明るい鼠色の指貫を拝借する。
そして忘れずに、自分の太刀を腰に履く。
ヒカルはもう一度だけ、アキラの部屋に戻ってその寝顔を眺めた。
座間はすでに、ここまで先を読んでいたのかもしれない。いや、この更に先だって。
(もしかして、あの竹林の夜以来、自分も、佐為も、賀茂も、座間の手の上で
踊っていただけなんじゃないだろうか)
ヒカルはそんな考えに襲われて、悪寒に震える自分の体を抱きしめた。
でも、後には引けない。
これが座間の望んだ展開なのだとしたら、奴が最終的に何を求めているのか、
自分が確かめなくてはならない。佐為の命か。アキラの命か。あるいは自分の…。
「賀茂。お粥、美味しかった」
ヒカルは、一言つぶやいて、アキラの部屋を後にした。
翌日、佐為は内裏で信じられないものを目にした。
取り巻きと衛士を引きつれ、5人ほどでゾロゾロとそぞろ歩く座間一行、
その取り巻きの中、座間のすぐ後ろにうつむきながら歩く少年の見慣れた金茶の前髪。
思わず足が止まった。
少年の手首に、傷の手当てをしたらしい布が巻かれていた。
そこにはまだ新しい血が僅かに滲んでいるのが見える。
「ヒカ…」
「おやおや、佐為殿、ご機嫌はいかがかな」
呼びかけた佐為の言葉を座間が遮った。
「ほう、佐為殿、何やらお顔の色が悪いようじゃが、大丈夫であられるかの?」
「近頃は風邪が流行りのようじゃ。お気をつけ召されよ」
菅原が笑い、座間も上機嫌で扇で顔を仰ぐと、佐為の方を何やら意味あり気な目で
見ながら通り過ぎた。
検非違使の少年も、それにならって、うつむいたまま足早に佐為の横を通り抜ける。
――ヒカルはついに、一度も佐為の方を見なかった。
(76)
既に日は傾き、雲が金色に染まりかけている。
アキラの家を出たヒカルは、徒歩で座間の屋敷へと向かった。
並の貴族では手に入れることのできない見事な書院造りの屋敷。
大きな門の前に行き、使用人らしき男を呼び、用件を告げる。
「座間様はただいま、内裏の方に出仕しておいでで、夜までお帰りになりません」
検非違使風情がたったひとりで、天下の座間様になんの用かと男が眉をひそめる。
だが、ヒカルが自分の名を告げると、思い当たったように頷き、
「座間様から聞き及んでおります。近衛様がいらしたら、中にお通しして
おくようにと」
と、あっさり中に入れてくれた。
やはり、座間はこうしてヒカルがここを訪れることなど予想の内だったのだ。
通された客間で、ヒカルはじっと座って座間の帰りをまった。
半刻ほども、壁を睨みつけるようにしてそうして座っていただろうか?
屋敷の門のほうがにわかに慌ただしくなり、部屋の御簾が侍女の手によって上げられ、
座間が入ってきた。後ろに菅原も付き従っている。
「これはこれは検非違使殿、よう来られた。しかし儂は、そなたに嫌われているかと
思っておったが、どういう風の吹き回しかのう」
「そんなの……お前が一番よく知ってるだろ!」
ヒカルは思わず声を荒げていた。ヒカルの前に腰を下ろしながら、座間が口の端を上げて笑う。
「はてさて、検非違使殿は何を言っておられるのか? わかるか、顕忠?」
「いや、私めにはさっぱりです」
座間の後ろに立つ菅原が相づちを打った。
「ふざけんなよ、あれをオレにけしかけたのは、お前らだろ!」
「ほう、いつになったらと思って楽しみにしておったが、ついにあれが行ったかの」
脇息に体重をあずけながら、あっさりと言う座間に、ヒカルが唇を噛んだ。
(77)
「どうにかする方法を教えろ…じゃなくて、教えて欲しい」
座間はつまらなそうに、扇を開いり閉じたりしている。
「それでは話にならんのう。ただ教えろと言われてもな。あれをどこにも逃げぬよう、
力をうばい縛り直すには、それ相応の陰陽師に相応の金を払わねばならんのでのう。
検非違使殿に、それだけの金があるとも思えん」
ヒカルはそれを聞いて少し胸を撫で下ろした。今の座間の物言いを信じれば、あの異形を
ヒカルに差し向けるために術を使ったのは、外部から金でやとった陰陽師らしい。
半年前までは、座間派のおかかえの陰陽師と言えば、倉田だった。ただ、ヒカルは
なんだかんだと人のいい倉田が嫌いではなかったので、今回の呪詛にかかわった陰陽師が
倉田でなければいいと思っていたのだ。
「あれを縛るのに、こちらはそれ相応のことをしなければならんのだ。それなりの
見返りがなければのう」
そちらが勝手にヒカルにあの異形を差し向けたくせに勝手なことを言っている。
「見返りって……なんだよ」
だが、そういったことを要求されるのはヒカルも予想のうちだった。でなければ、
座間が手間ひまかけて、こんな風にヒカルを罠にかけるなどするはずがない。
さぁ、何を要求されるのか? 佐為の食事に毒を盛れとでも命ずるつもりだろうか?
だが、次の座間の言葉は予想だにしなかったものだった。
「おぬし、儂の物になれ」
(78)
言われた言葉の意味が飲み込めず、ほんの一時ヒカルはポカンとしてしまった。
――オレが座間のものにって……え?え?
「先だっての下弦の月の夜は、楽しかったのう、検非違使殿。
儂は正直、あの夜の夢が忘れられん」
「な…に、言って……」
戸惑うヒカルに、座間が笑った。
「わしがお前を使って、佐為の奴や、行洋の失脚でも狙うとおもうたか?
そのようなこと、わざわざお前ごとき小者を使わんでも、いくらでもやりようはあるわ。
儂がこうしてお前がここに来るようにしむけた目的などただひとつ。これよ」
座間が持っていた扇を閉じて、それでヒカルの喉のあたりに触れた。
そのまま手を持ち上げて、扇でヒカルの頬をなでる。
「単に美味いだけの美酒なら金さえあればいくらでも手に入るが、
こういった珍しい類いの酒は金を積んだだけではなかなか手に入らぬでのう」
ヒカルはおそるおそる答えた。
「佐為の警護をやめて…、あんたの警護をしろってことか?」
「分からぬお子じゃのう。儂はおまえの体が欲しいと言っておるのだ。
儂が飽きるまで、毎夜のごとく寝所にはべり、閨の相手をせい、とな」
ヒカルの体が震えた。
「したれば、あれを縛ってやってもよい」
「一介の検非違使ごときの者を、座間様がお抱え下さろうというのだ。
感謝こそすれ、断るいわれはあるまい」
菅原が口をはさんだ。
(79)
「佐為などの元で飼い殺しにされるには、おしい味よ。お前が、明日から名目上は
わし付きの警護役として、この屋敷に住み込むというのなら、陰陽師に依頼して、
あれを縛ってやらんでもないが、どうする」
どうもこうもなかった。
ここに来ると決めた時から覚悟は出来ていた。
佐為の命や、行洋様の命に関わること、自分の心に反することを要求されるのなら、
迷わずにそうしようと。
ヒカルは腰の太刀に手を伸ばし、白刃を引き抜くと、その刃を自分の首に当てた。
その刃を思いきり手前に引いて、すべてを終わらせてしまおうとしたヒカルの手を、
座間の言葉がとめた。
「佐為殿や、おまえの家族がどうなってもいいのかのう」
ヒカルが固まった。
「お前がいなくなり、行き場をうしなった魔物の矛先を佐為殿や近衛の家の者たちに
向けることなど、たやすいこと。いっそ縛るより金がかからなくてよいわ」
ヒカルの脳裏を、アキラの血に染まった手、佐為の腕の赤い痣の印象がよぎった。
そして、いつも心配ばかりかけている母と祖父の顔。
「さあ、どうする検非違使殿?」
逃げ道はない。
きっとどうにかなるだろうと、誰にも何も言わずここに来てしまった自分は
大馬鹿者だ。
力の抜けたヒカルの手から、太刀がするりと抜け落ち、床板にあたって、
ガランと大きな音を立てた。
「好きにしろよ」
うつむいて、ヒカルはつぶやいた。
「おまえのものになってやる。だから、佐為やオレの家族には手を出すな」
座間が満足げに膝をたたいた。
(80)
気がつけば、すでに日は沈んで、部屋はヒカルの距離からでも座間の顔の判別が
つきにくい程に暗くなっていた。
菅原が手を叩いて侍女を呼びつけ、灯明台を持ってこさせる。
座間が口を開いた。
「証を見せてもらおうかのう」
「証?」
「まずはそう、服をぬげ」
ヒカルは一瞬だけ、座間を睨みつけたが、諦めたように1回目を閉じると、
ゆっくりと立ち上がり、座間の言葉にしたがって、まず縹の狩衣の襟をほどき、
前をはだけて、そのまま袖からストンと下に落とした。
座間と菅原はニヤニヤと笑いながら、そのヒカルの様子を見ている。
ヒカルは次にその下に来ていた白汚しの色の単衣に手をかけた。
瞳はまっすぐ座間を射ぬくように見つめたまま。
単衣の前がほどかれ、繊細な形の鎖骨が、暗い灯明の光に照らし出される。
襟を肩まで落とせば、その薄桃色の小さな乳輪も。ヒカルは肩まではだけたそれを、
狩衣と同じように、ストンと袖から脱いで下に落とした。重い衣摺れの音。
ヒカルの何処か中性的な匂いのする上半身があらわになる。
まだ性的に分化する前の少女のようななめらかな肌。
座間が扇をヒカルに向けて扇を揺らし、先を催促する。
ヒカルは、少しの間だけ躊躇したものの、まず、少しかがんで指貫の足首を括る紐を解き、
ついで体を起こすとゆっくりとした動作で指貫を支える腰帯をほどく。
恥羞に、わずかに指先がふるえた。ほどいた腰帯から手を離せば、その指貫も
パサッと乾いた音を立てて崩れて、床の既に脱いだものの上に折り重なり、
ついにヒカルの裸体があらわになった。
「ほほう」
|