日記 76 - 78
(76)
真夜中に、寝苦しさのあまり目が覚めた。エアコンのタイマーは、とうに切れていた。
暑くて目が覚めたわけではない。あまりにも、生々しい夢を見たからだ。ヒカルを抱く夢だ。
夢の中で、ヒカルは和谷のものだった。あの輝くような笑顔も、子供っぽい拗ねた仕草も、
甘い声も、すべて……。
夢から覚めた今、抱きしめたはずの腕の中には何もない。だが、あの唇の感触だけは
本物だ。柔らかくて甘い唇。キスの経験がないわけではない。囲碁一色の生活と雖も、
それなりに経験はある。それでも、そのすべてを消し去ってしまうくらいヒカルの唇は、
甘かった。
あの夜のことを、和谷は忘れることができなかった。震える唇や、ヒカルの身体から、
香る石鹸の匂い。閉じた瞼に涙を滲ませていたのが、暗闇でもはっきりとわかった。
アキラとのことを考えると、嫉妬で狂いそうだ。
―――――進藤は、本当にアイツとヤッているのかな…オレの考え過ぎじゃないか?
ファミレスでの二人は、仲のいいケンカ友達に見えないこともなかった。だが、遠慮の
ない会話の端々に見え隠れする、ヒカルの甘えるような仕草やアキラの慈しむような眼差しに
和谷は気づいていた。二人の間には、入り込めない何かがあった。
和谷は、その考えを振り払うように頭を振ると、もう一度目を閉じた。瞼の裏に裸で
絡み合うあの二人の姿が浮かんだ。きりきりとした痛みを胸の当たりに感じる。
「―――――くぅ……進藤…進藤!」
先ほどの夢の名残が、まだ、身の内にくすぶっていた。無意識に手が伸びた。
―――――ヒカルが欲しい…
掌に感じた熱さに、和谷は大きく肩で息をついた。
(77)
「進藤はどうしてる?」
手合いの日の昼休み、緒方は思い切って、アキラに声をかけた。こんなことをアキラに
聞くのは、気が引けたが、本人に会えないのだから仕方がない。棋院でも会わないし、
緒方のマンションにも来ない。電話をかけてきたことは、ほとんどないし、何の用も
ないのに自分の方からかけるのも妙な気がした。
あの時はああいったものの、やはり、心配だった。マンションを出るときには、もう
いつものヒカルに戻っていたが、それから何の音沙汰もない。
アキラは、黙って緒方を見つめていたが、ふっと柔らかく笑うと
「大丈夫。元気ですよ。」
と、答えた。
『元気』と聞いて、少し安心したが、ヒカルの『元気』は、あまりあてにならない。
泣いているかとと思えば、拗ねているし、かと思えば、甘えてくるし……笑っているかと
思えば、ひどく悲しげだったりする。誰を思っているのか…寂しそうな遠くを見つめる瞳…。
「この前、森下門下の人や友達と花火大会したらしいです。とても、楽しかったって…」
「今度、二人で花火をする約束なんです。」
アキラの声は、静かで優しかった。緒方は改めて、アキラを見た。アキラは、人当たりが
よく、誰に対しても親切だ。だが、それはあくまでも一線を引いた優しさだ。こんな風に
慈しむような優しさではない。アキラは、変わったと思った。
「そうか…なら、いいんだ。」
ヒカルは、寂しいと言っていた。誰といても寂しいのだと…。楽しく過ごせているのなら
―――ヒカルがそう言っているのなら―――自分が、よけいな心配する必要などないのだが…。
考え込んでいる自分を、アキラが見つめていることに、緒方は気がつかなかった。
(78)
アキラには緒方の気持ちがよくわかる。ヒカルのことが心配なのだ。以前の自分なら、
緒方が、ヒカルの名前を口にするだけで不愉快になっただろう。ヒカルを独占したかったから…。
今も、ヒカルを自分一人だけの物にしたい。でも、出来ない。
アキラが緒方くらい大人なら、それも可能だったかもしれない。だが、今の自分では、
ヒカルを受け止めきれない。ヒカルには、自分以外の大人が必要なのだ。
甘やかして、守ってくれる人が―――――
アキラは、緒方に激しい嫉妬と、それと同じくらいの信頼を感じた。奇妙な連帯感だ。
『緒方さん…変わったな…』
以前の緒方は、いつも口元にシニカルな笑みを浮かべ、厭世的な雰囲気を纏わり付かせて
いた。
こんな風におろおろと、他人を心配するような、人間ではなかった。
この人と自分は、以前、愛人関係だった……そのことを思い出すと、不思議な気持ちになる。
アキラはヒカルを愛しているし、緒方もヒカルに、ただの好意以上の感情を持っていることは
明白だ。それが、ヒカルを間に挟んで、ごく普通の会話をしている。しかも、どちらも
ヒカルの心配しているのが、何だかおかしい。
知らないうちに笑っていたらしい。緒方が怪訝な顔をして、自分を見ていた。
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