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緒方はバスローブを壁のフックに掛け、セーターの袖を捲ると、アキラの身体に
シャワーをかけてやった。
「……痛っ!……お湯が染みるよぉ……」
痛みに身を強張らせるアキラに、緒方はノズルを持つ手を微かに震わせる。
「ごめんな、アキラ君。ちょっと痛いだろうけど我慢してくれよ。温度はこれで
大丈夫か?」
「……うん。温かくて気持ちいい……」
痛みに慣れてきたのか、アキラはそういって少しだけ嬉しそうな表情になった。
緒方は自身の行為を何ら責め立てないアキラに複雑な思いを抱きながらも、それを
表情には出さず、シャワーを止めた。
スポンジにボディソープを染み込ませ、丁寧にアキラの身体を洗い上げてやる。
「染みるか?」
下半身にスポンジを当てる緒方がそう尋ねると、アキラは僅かに身を硬くしたものの、
痛みを我慢して首を横に振った。
身体を洗う緒方に身を任せ、しばらく俯いて黙り込んでいたアキラだったが、
ふと顔を上げ、緒方の顔をじっと見つめる。
「どうした、アキラ君?」
「……緒方さんは……ボクのこと嫌いなの?……嫌いだから、あんな……」
アキラの身体を洗う緒方の手が止まった。
緒方は大きく息を吐き出すと、仄暗い浴室で漆黒の輝きを放つアキラの円らな
瞳を見据える。
アキラの瞳は、シャワーの水滴とは明らかに異なる透明な液体で濡れていた。
自分を真っ直ぐに見つめるアキラから目を逸らすことは、緒方自身の矜持が
許さなかった。
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「そんなことはない。…………ひとつだけ信じてほしいのは、オレがアキラ君を
嫌いになるようなことは、これまでも、そしてこれからも決してないということだ」
沈黙したまま緒方をじっと見つめていたアキラの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「…………うん」
安心したように頷くアキラをやりきれない思いで見つめる緒方は、アキラの両肩に
ゆっくりと手を置いた。
(……なんでもっとオレを責めないんだよ……)
そのまま力無く項垂れ、瞳を閉じる。
そんな緒方をしばしの間、複雑な表情を浮かべながら見つめていたアキラだったが、
何を思ったか、ふと口を開いた。
「ねぇ……緒方さん……」
緒方は驚いて顔を上げた。
「眼鏡……ちょっと曇ってるよ」
アキラは少し照れ臭そうにそう言って、顔を上げた緒方の眼鏡のレンズを指先で
拭ってやる。
「あれっ!泡が付いちゃったかなぁ……?ごめんね、緒方さん」
緒方はしばらく状況が把握できないまま、ただアキラを見つめていた。
やがて、目尻を涙で濡らしながらも、はにかみながら微笑むアキラの身体を優しく
抱き寄せた。
「服が泡だらけになっちゃうよ、緒方さんっ!」
緒方の腕の中で声を上げるアキラの背中を労るように撫でながら、緒方はアキラの
髪に顔を埋め、耳元に唇を寄せる。
「……いいんだよ、そんなの……」
アキラは緒方の胸に頬を擦り寄せ、背中に手を回すと、柔らかなカシミアのセーターを
泡だらけの手できゅっと握り締めた。
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アキラの身体をシャワーで流してやった後、浴室を出た緒方は、洗濯乾燥機の中から
昨晩の内に洗い終えてすっかり乾燥したアキラの下着を取り出した。
「ひとりで着替えられるか?」
「……それくらいは、自分でできますっ!」
羞恥心から頬を赤らめ、力強くそう答えたアキラを洗面所に残し、緒方は自身も
着替えるため、クローゼットのある寝室へ向かった。
リビングを足早に通り抜けようとすると、電話が鳴る。
かけてきたのはアキラの父親、塔矢行洋だった。
緊張した面持ちで受話器を握る緒方に、塔矢はアキラが一晩世話になったことへの
礼と、自宅に朝食を用意してある旨を伝え、緒方をその朝食の席に誘う。
「……朝はあまり胃が受け付けないもので……。わざわざお心遣いいただいて、
ありがとうございます」
昨晩の一件がなければ快諾したであろう師匠からの申し出だったが、失礼にならないよう
断ると、間もなく塔矢家に向かうことを告げ、受話器を置いた。
(……あながち嘘というわけでもないが……)
確かに、日頃の朝食はごく軽いものかコーヒー一杯で済ませてしまう緒方だったが、
師匠の誘いを断った真の理由を隠匿しただけに、気が重い。
そこへ、着替えを終えたアキラが現れた。
シャワーを浴びる前と比べ、その足取りは格段にしっかりしている。
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「緒方さん、まだ着替えてないんですか?」
シャワーでアキラが泡を付けた眼鏡もまだ拭いていない緒方に、アキラは苦笑した。
「……ああ。いま先生から電話があってね。朝食を用意してあるから、家で食べなさいと
おっしゃっていたよ」
アキラは僅かに強張った表情を浮かべながら、頷いた。
だが、気を取り直して緒方の眼鏡に手を伸ばす。
「ボクが拭くから、緒方さんはその間に着替えたらどうですか?」
緒方はアキラの好意に素直に甘えることにした。
眼鏡を外してアキラに渡すと、寝室へと向かう。
緒方の服は上下とも黒だったため、泡が消えた跡が白く残っていた。
服を脱ぎ、クローゼットから煉瓦色のシャツと焦げ茶のスラックスを取り出して、
手早く着替える。
ベルトを締め終わると、脱いだ服を手にリビングへと戻った。
「……服、汚しちゃってごめんなさい。それからこれ、眼鏡」
申し訳なさそうに言うアキラに、緒方は首を横に振ると、アキラの手から綺麗に
磨かれた眼鏡を受け取る。
「オレが勝手にやったことだ。アキラ君が謝ることじゃないさ。眼鏡、ありがとうな」
「このセーター、凄く柔らかくて、触ってて気持ち良かったなぁ……」
緒方が手にするセーターを嬉しそうに触るアキラの頭をそっと撫で、緒方は穏やかに
語りかけた。
「カシミアという素材で、薄くても暖かいんだ」
「ボクのマフラーも、これと同じ素材かも……」
アキラはソファに駆け寄ると、鞄を開け、奥からライトグレーのマフラーを取り出して、
緒方に見せた。
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「なんだ。マフラーを持って来ていたのか。昨日、中華街に出かけた時はしてなかっただろ?
寒くなかったのか?」
「昨日はそんなに寒くなかったから……。ここに来る時、途中で鞄にしまったんです」
緒方は手にしていた服をアーロンチェアの背凭れに掛けると、アキラの側に寄り、柔らかな
カシミアのマフラーを首に巻いてやった。
「今朝はかなり寒いぞ。車の中もすぐに暖房は効かないだろうし、暖かくした方がいい」
アキラは頷くと、ソファの上に置かれたピーコートを羽織り、鞄を持った。
緒方の言葉通り外は寒く、玄関を出て駐車場まで降りて来ると、アキラはその寒さに思わず
羽織っていたコートの前をしっかり合わせる。
「本当に寒いや……」
「今エンジンをかけたから、ちょっと待っててくれ。まだ暖房じゃなくて冷房みたいな
風しか出ないからな」
そう言って肩をすくめる緒方に、アキラは震えながらも少し笑って頷いた。
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