裏階段 アキラ編 76 - 80


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進藤との一件の直後はふさぎ込み元気のない表情も見られたが、最近は全て
吹っ切れたようなところがあった。
進藤の所在がはっきりした事が大きかったのだろう。
彼がその後この碁会所にやって来る事はなかったのだが、機会があれば彼と打てる、
その事から自分は逃げずにいつでも受けて立つと言う気構えが全面に出ている。
自分以外の存在に目を向け、目に力を宿してそれを追おうとするアキラが、
ありがちな言い方だがひどく眩しく見えた。それは確かだった。
ふいにアキラと目が合い、彼がこちらにやって来た。
何となく煙草を灰皿に押し付けて消していた。新しい制服に不似合いな匂いを
付けたくなかった。
「お父さんがみんなに挨拶しなさいって言うからちょっと寄ってみただけなのに、
なんだかすごい事になっちゃった。」
当の先生本人は不在だった。入学式は地方で防衛戦で不在だったために一度あらためて
アキラと共に海王中を訪れて学校長に挨拶し、その帰りにアキラだけが
ここに来たという事だった。
「アキラくん、海王中の制服良く似合うよ。うん、すごい頭良いって感じ。」
「試験はなかなか難しくて…ダメだったらどうしようかなって思った。」
照れくさいというよりは、困ったような笑顔でアキラは芦原とにこやかに会話を
交わしている。
そしてアキラがオレの方を見た。


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何か言ってやった方がいいかと思ったが、黙って見つめ、消した煙草の代りにコーヒーを
口に運ぶくらいしか出来なかった。
「緒方さんもアキラくんの制服姿がよく似合うって言っていたよ。」
芦原が他意なく話し、アキラがにこりと笑う。
頭では思っても口にした覚えはなかったが、芦原はそう聞いた気になっていたようなので
とくに否定しなかった。そういう顔をしていたのだろう。
「せっかくだから、お三人で。」
市河がカメラを構えて寄って来た。
「この場合、アキラくんを間にするべきかもしれないけど、ちょっとしのびないなあ。
真ん中は早死にするって言うだろ?」
「別にそんなの関係ないですよ、芦原さん。ボクは構いませんが…。」
「…オレは別にいい。芦原とアキラくん、2人で撮ってもらえ。」
そう言って立ち上がるとアキラが何かを言いたげにこちらを見た。
「そんな事言わないで、緒方先生。じゃあお二人ずつね。いいでしょう。」
市河に返事をする間もなくアキラが傍に立ち、カメラの方に顔を向けるよう目で要請してきた。
どんな顔をして写ればいいのやら、わからなかった。ただ、
嬉しそうにオレの隣に寄り添うアキラの表情は覚えている。

囲碁関係者に撮られたものは別にして、先生にあまり写真やビデオといった記録を残す趣味がなく
アキラのそういった日常で撮ったような写真は意外な程少ないらしい。
「…だからボクにとって、これは大切な写真の一枚なんです…。」
後日市河から預かった写真をオレに渡す時、アキラはそう言葉を添えた。


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それから暫く、アキラの事を思考の外側に押しやる必要があった。
タイトル戦への挑戦があった。
リーグ戦まではコンスタントに残れてもその先へ行けなければ意味がない。
小さなタイトルばかりが手元にあっても嬉しくはないのだ。
実感として、ようやく波が来つつある事を感じていた。
だがそれは並び立って名を上げて来た倉田四段、いや、段位は直ぐに追いつかれるだろう、
気紛れな神の手によるさざ波はわずかな隙で彼の方に向かうかもしれない状況だった。
碁の頂上への道はそのまま先生への道でもある。
先生は、十段戦を制し四冠を獲得していた。
紛れもなく日本囲碁界のトップ棋士だ。
十段位獲得の翌日、塔矢門下内で特に騒ぐ事なく普段通りに研究会は行われた。
その場にはアキラもいた。
研究会が終わって玄関を出て車に向かおうとするとアキラが見送りに出て来た。
「…名人にはおそれいったよ」
「ボクもそう思います。」
アキラはニコリと笑って答える。
「まだプロにもなっていないクセに。」
少しばかり意地の悪い言い方をしてしまったが、アキラは特に表情を変える事はなかった。
「生意気言ってすみません。」
「アキラくんもどこの馬の骨か分からない奴なんて追っかけていないで少しでも早く
プロになるんだな。」
さすがにアキラの表情が揺れた。


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「…気に食わんな。」
アキラを残し、車に乗り込むと発進させた。
進藤という少年を追いながらオレも手放そうとしない。
それもまた、王者の血というものなのだろうが。

初めて先生の打つ碁を見た日から、予想していた事が現実になりかかっていた。
この人が打つ碁は多くの人を惹き付ける。自分はそれを追い続ける。
そしてこの人を追い詰め、捕らえる。
オレは一人だけを追うのに精一杯だった。それは今でもそうだ。
先生の打つ碁の流れを誰よりも自分が引き継いでいると言う自負があった。
アキラよりも。
8大タイトルを賭けて先生と打ち合う、そんな日をずっと追い求めてここまで来た。

そうして碁聖戦が、間近まで来ていた。
それに立ちはだかったのが桑原本因坊だった。
「若手の旗手と言われて浮かれているようじゃが、最近の若手自体がふがいないからのオ。」
あちこちの会合で挑発的な言動を繰り返しているのは聞いている。それに対する反発を糧に
精力を維持しているようなものである。
初めて桑原と碁盤を挟んで座り合った時、桑原は「ホオ」と何かに感心するように声をあげ
隅々まで値踏みされるように眺められた。何に関心を持たれたのかはわからなかった。
とにかくその時のその視線が、オレは気に入らなかった。
どこか、伯父を思い出させるところがあった。


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人には誰にでもある弱い部分を、柔らかな贓物を的確に探り出しえぐり出そうとする
禿鷹のような目だ。伯父も晩年はそういう目付きで打っていた。
体力的に立ち打ち出来ない代りに選ばれる武器だ。戦略と言うべきか。

桑原翁を苦手と感じる原因に、彼が囲碁界に関してあらゆる物事を、
ある意味、スキャンダルといった醜聞に及ぶまで熟知しているという面がある。
伯父は借金の為にオレを何人かのプロ棋士の下へやった。
たださすがに伯父も相手を選んだのか、既にプロとは言い難い、
正道から大きくそれてしまった特殊な方面の連中が相手だったと思う。
同じ囲碁界でも一線が引かれた場所の人々だった。
オレの名前はその相手に伝えられる事はなかった。
伯父の家で、あるいはどこかの旅館のようなところの碁盤がある部屋で一人で
待たされていると、やがて襖が開き、その相手がやって来る。
面白がって取りあえず一局打つ者、打たずにそのままオレの背後に座り
体を弄るだけの者も居た。最初にきつく目隠しをされて顔も分からないまま
行為を済まされる事もあった。
それで借金の返済時期の延長どころか、新たな借金の承諾も得られていたようだった。
その中の一人に、顔つきはあくまで人の善さげな、気の小さそうな小太りの男が居た。



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