裏階段 ヒカル編 76 - 80
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アキラがオレから視線を逸らし、床に落とす。そんなアキラをそこに残しオレも外に出た。
その日はアキラはオレの後については来なかった。車に乗り込んで発進させるまで
特にその事を意識しなかった。
走り去る車影を、アキラが何かを諦め切ったように棋院の建物の窓からいつまでも見つめて居た事など、
知らなかった。
石を持ち、運んでいるのは進藤だ。
彼にそれをさせている「力ある者」の存在があるなしにかかわらず、結果的に進藤の碁そのものに、
進藤の存在そのものに惹かれ始めている自分が居る。
小さな染みが自分で気がつかないうちに加速度をつけて広がっていく。
布石として点在していた石がある瞬間に力を発揮し盤面を支配してしまうように。
「その時」がすぐそこまで迫って来ていた。
“十段”タイトルを賭けた先生との対局が目の前まで迫って来ていた。――そんな間際に。
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進藤は胃腸系が弱い。その証拠に乗り物に弱い。
こちらとしては一応優良ドライバーを心掛け、発進停車にも気を配り優しい運転を
しているつもりだった。それでも進藤は乗って早々に「気持ち悪い」を口にした。
町に下りる前にカーブの多い山道を通らなければならないせいもある。
宿に来る時も相当辛かったらしく、オレにつき合う気になったのはその事があったようだ。
苦情を口にされる前に助手席で寝ているわけでもないのにやけに大人しい時は、それとなく
場所を選んで車を停車し、休憩を入れてやった。
他の棋士らを乗せた送迎バスはとっくに駅に着いていることだろう。それとは違う方向に
東京に背を向けてオレ達は移動している。
「…考えてみれば、アキラが乗り物に酔ったという記憶はないな」
「あいつ、そうなの?」
「一度だけ、まだアキラがヨチヨチ歩きの頃に塔矢夫妻が知人の結婚式に出席するために乗った
マイクロバスの中で、元名人の膝の上でアキラがミルクを吐いた事はあったらしい。
元名人がアキラの腹を強く抱え過ぎたのが原因だったという事だ。」
「へえ」
一瞬進藤がニヤリと嬉しそうに笑ったので慌てて付け加えた。
「頼むから、オレがこの話をした事はアキラには黙っていてくれよ。」
「へへっ」
進藤はただ妙な笑みを浮かべて座席を深く倒し窓の外を眺めている。
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少しばかり開けた窓から吹き込む風が進藤の前髪を揺らし、傾きかけた日差しが進藤の髪や頬を
全体的に薄い色彩に輝かせる。
普段より濃い色が入った運転用のサングラスを通しても進藤が放つ眩しさは防ぎようがない。
信号で停止していると横断報道を渡る高校生らしき地元の少年のグループは、そんな進藤に
魅入られたように顔を赤らめしばらく全員視線をこちらに釘付けにしていた。
「…何だろう、あいつらオレのことジロジロ見てる」
「どこかの美少女タレントにでも間違えられているんだろ」
そう言うとてっきり怒ると思ったが、進藤は考え込むように黙りこくってしまった。
「…オレ、よく声かけられるんだ。渋谷とか出かけると男の人に。名刺渡される事もある。」
進藤はため息混じりに前髪を掻き上げる。
「…そんなにオレって…、…その…、うー…」
「自覚がないというのは驚きだな。まあ、あまり可愛らしい服は着ないほうがいいだろうな。
その点アキラは気を使っているよ。彼もそういうのが多いから、わざとえらく渋めの服を選んでいる」
「あいつはオレから見ても綺麗だと思う…」
「面と向かってそれを言ったら睨まれるだろ」
「うん。…あいつはすごく綺麗だけど、すごく怖い」
「オレもそう思う」
互いに含みがあるように口の端だけで笑い、信号が変わって発進させた車内に暫くの間沈黙が流れる。
オレ達は何か逃れようのないものから逃れようともがいているのかもしれない。
誰かが流した血のような赤を滲ませた空の下を車は走り続ける。
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宿泊先の旅館の前でイベント参加者らと解散し、マイクロバスに乗る面子の中から進藤だけを
かっさらうのは多少の勇気が要った。だが心のどこかに優越感もあった。
心の片隅でアキラに対する呵責を負いながらも。
アキラを助手席に乗せるのとはまた違った、自分が進藤に「選ばれている」という誇りのようなものだ。
進藤には失礼かもしれないが、例えて言うなら絶対人にはなつかないと言われている野鳥が
自分の肩に止まり、手から餌を啄む、そんな感じに似ている。
と言うのも、確かに進藤の周囲には常に同年代の棋士らがいて、一見アキラと比べると進藤は友人に
恵まれているように見えるが、それでも何か用件があった時に、誰も進藤の居場所を知らない事が
あった。
意外に進藤には打ち解けた近い存在が居ないようなのだ。
アキラでも知らない、進藤だけの行きつけの碁会所は複数あるようだが、そこに居るとも限らない。
そして気がつくといつの間にか進藤はひょっこりと皆の輪に戻って来ている。
そんな進藤が、それこそいつ日本に戻って来ているかわからない先生と何度か会っていると言うことは、
少なくとも進藤と先生の間ではそれなりの綿密なコミュニケーションが成立している事を示していた。
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ちょうど道路の片側に海が開け、地元のサーファーらが使うらしいシャワーや休憩所の施設があった。
それらよりは適当に離れた場所に車を停めて外に降り立ち、周囲を見回す。
彼等にシーズンは関係ないらしく、どこからかラジオの楽曲が流れ、車の後ろを開いて腰掛けたり
帰り支度をしながら談笑している彼等の姿が道路脇に点在している。
夕焼けの日差しがようやく青みがかり、サングラスから普段の眼鏡に変え、スーツの上を脱いで
後ろの座席に放り込みネクタイも外す。
車のドアにもたれかかるようにして煙草を銜えた時に、進藤が運転席側へ身を伸ばして文句を
言ってきた。
「…緒方先生さあ…、車の中で煙草吸わない方がいいよお…」
「消臭剤が切れていたかな。これでも気を使ってなるべく控えているつもりなんだが」
こっちの話を聞いているのかいないのか、進藤も外に出てトイレらしき建物を見つけると
駆け出して行った。
進藤の年頃なら煙草に興味を持つはずであるが、最近の子供はそうでもないのかもしれない。
無理に背伸びをしなくなった、そんな気がする。肉体的な関係を持った後でも、だからといって
進藤のオレに対する態度に変化は顕われなかった。
アキラは違った。事ある度に大人びて変化し、オレとの年の差を詰め対等であろうとした。
それが鼻につく度に手酷く懲らしめてやったが、それでアキラがしおらしく引き下がるのは
一時的なものでしかなかった。
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