誘惑 第一部 76 - 80
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―オレは…何をしてるんだろう…?
加賀の唇に触れ、舌先で加賀の唇を探りながら、ヒカルは思った。
ぐい、とヒカルの頭が力強く引き寄せられ、おずおずと探っていた舌が、熱い舌に絡め取られた。
ヒカルは思わず息を飲みそうになる。
違う。全然違う。塔矢の、甘いキスとは全然違う。
タバコの匂い。強引で荒っぽい動き。でもそれがイヤじゃない。
身体の力が抜けそうになって、ヒカルは加賀のシャツにしがみついた。
頭がぐらぐらする。
オレ、どういうつもりなんだろう。加賀にキスなんかして。
加賀とセックスするつもりなんだろうか。加賀が、オレを抱くんだろうか。
オレは加賀に抱かれたいんだろうか…?
こんなふうに…塔矢も緒方先生に、頼ったんだろうか。甘えてキスをねだったんだろうか。
そうか、オレは加賀に甘えてるのか。だって加賀はいつも正しくて、オレを後押ししてくれたから…
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ようやく唇が解放されて、ヒカルは荒い息をつきながら、加賀を見上げる。
「加賀…」
「どういうつもりだ。」
苛立たしさを隠せない声で、加賀が言った。
その声に、ヒカルがびくっと怯えた。
「わかんねぇ…わかんねぇけど、オレ…」
そんなに怯えんじゃねぇ、そう言ってやりたくて、ヒカルに手を伸ばした。
ヒカルは一瞬肩をすくめたが、加賀の手が優しく頭を撫でたので、ヒカルは自分の頭を、とん、と
加賀の胸に落とした。そうやって頭で身体を支えるように加賀に体重を預けていると、そこから加賀
の鼓動を感じる。どくんどくんと脈打つ拍動が心地良い。
「加賀…」
ヒカルは小さい声で加賀を呼んで加賀のシャツの両袖を握り締めて、顔を上げた。
「進藤…、」
「加賀……オレのこと、キライ…?」
熱い、潤んだ瞳が加賀を見上げている。零れ落ちそうな大きな瞳と、紅潮した頬と、甘い息を吐く
小さな唇が、加賀を幻惑する。それはまるで今まで知っていた進藤ヒカルとは――図々しくて小
生意気な後輩とは、まるっきり別の生き物のように、加賀には見えた。
「…なんてぇガキだ…」
加賀が呟くように言いながら、ヒカルのTシャツに手をかけた。
「優しくなんか…できねぇぜ…?」
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「んっ……」
加賀の唇がもう一度ヒカルの唇に触れ、今度は柔らかく口中に押し入る。そうして口内を丹念に
探りながら、手はTシャツの中を探るように這う。
「あっ…!」
加賀の指がヒカルの乳首を軽くつまむと、甘い痺れがヒカルの身体を駆け抜けた。
「んっ…ふ……ああ…」
加賀の緩やかな手の動きに応えて、ヒカルの甘い息が加賀の口内にもたらされる。
加賀はヒカルの骨格を、身体のラインを確かめるように手を滑らせる。
これでオレは二度と塔矢には会えねェな…
ヒカルの口内を、そして身体を探りながら、加賀はそんな事を思った。
もう会えないと思うのは会いたいと思っているからなのか。
囲碁教室をやめてから塔矢アキラには会っていない。あいつはとっくにオレを忘れただろう。
いや、違う。一度だけ見た。まだ小学生だった進藤を無理矢理引っ張っていった大会だ。あの時も
塔矢は進藤を見ていた。「美しい一局だった。」そう言って憧れのこもった眼差しで進藤を見ていた
塔矢の顔が忘れられない。あの時から塔矢は進藤に惹かれていたんだろうか。
でも今の塔矢アキラをオレは知らない。一番最近のは――そうか、新聞に載っていた写真か。
「加賀、進藤くんがね、」と筒井が見せにくる囲碁新聞や雑誌を興味なさげにめくりながら、その中の
「塔矢アキラ」の文字を探していた。写真を見つけると、「ケッ」とバカにしたような声を出しながらそこ
に目を止めてしまっていた。
それと、進藤からたびたび聞かされたのろけ話と。
オレの知っている塔矢アキラはそれだけだ。
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手に触れるヒカルの肌の健康的な滑らかさに驚嘆する。
すぐ下に筋肉の動きを感じられる皮膚の張りは、女の肌の柔らかさとは随分違うように感じる。
「加賀の付き合うコって、サラサラストレートの黒髪のコばっかりだね。」
そんな事を言われたことがある。筒井はヘンな所で勘がいい。
手紙をもらったり、直接告られたりする事はしょっちゅうだった。大抵は面倒で断っていたが、たま
には付き合う事もあった。だがそれも長く続く事はなかった。そして、筒井に言われた通り、相手
はいつもストレートの黒髪の、色白の肌の綺麗な女ばかりだった。けれど清楚なお嬢様に見える
ような女も、気の強そうな女も、付き合い始めれば簡単に脚を開き、その後には加賀にしなだれか
かった。そうなってしまえば、どの女も同じに見えた。
「加賀くん、本当にあたしの事、好きなの?」
そう言い出すともう鬱陶しいとしか思えなかった。別に好きで付き合ってるわけじゃない。そっちが
付き合ってくれって言ったんだろ。そん言うと決まって女は泣き出す。面倒くさい。セックス自体は
嫌いだとは言わないが、その前後が面倒だった。女と寝てるよりも男友達とくだらないバカ話をし
てる方がよっぽど有意義だ。そんなふうに思っていた。
それでも性懲りもなく似たようなタイプの女に声をかけられると、つい応じてしまった。あれは一体
なぜだったんだろう。その度に何かを期待し、そして失望する。あれは一体なんだったんだろう。
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いつの頃からか、進藤はオレに塔矢のことを相談してくるようになった。だから進藤と塔矢がいつ
から付き合い始めて、今じゃどんな付き合いだかも、進藤から聞かされて知っている。
そうやって進藤から塔矢の名を聞くたびに、オレの胸を痛めつけていたものは何だったろう。
嫌いだと言いながらも、塔矢をずっと忘れられなかったのは、自分は囲碁からは手を引いたのに、
真っ直ぐに塔矢を追いかける進藤を羨ましいと思ったのはなぜだったろう。
思い出すたびに胸を締め付ける痛みが、あれが恋でなくてなんだったろう。
筒井を通じて囲碁と関わる事がなかったら、いや、進藤と関わる事がなかったら、きっと忘れて
いられただろうに。
そして今進藤を抱いてしまったら、オレは二度と塔矢には会えなくなる。
いや、どうせ、進藤を通じてしか会う事はないんだろう。
だったらそんなものはぶった切ってしまった方がいい。
「や、だぁ…」
ソフトすぎる加賀の動きがもどかしくて、ヒカルは頭を振る。
「か…が…」
吐息混じりに呼ぶ声が加賀を引き戻す。
捲り上げていたTシャツを、上に着ていたシャツごと頭から引き抜き、加賀を見上げるヒカルの唇に、
優しくくちづけを落とす。
この唇に、塔矢も何度も触れたんだろうか。
そんなバカな考えが頭をよぎる。
だが、違う。
塔矢とは関係なく、今オレが進藤を抱くのは、オレに頼ってくるコイツが、縋りつくようにオレを見上げる、
涙をためた大きな目が、可愛いと思ったから。
あばよ、塔矢。
オレの初恋。
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