日記 76 - 80
(76)
真夜中に、寝苦しさのあまり目が覚めた。エアコンのタイマーは、とうに切れていた。
暑くて目が覚めたわけではない。あまりにも、生々しい夢を見たからだ。ヒカルを抱く夢だ。
夢の中で、ヒカルは和谷のものだった。あの輝くような笑顔も、子供っぽい拗ねた仕草も、
甘い声も、すべて……。
夢から覚めた今、抱きしめたはずの腕の中には何もない。だが、あの唇の感触だけは
本物だ。柔らかくて甘い唇。キスの経験がないわけではない。囲碁一色の生活と雖も、
それなりに経験はある。それでも、そのすべてを消し去ってしまうくらいヒカルの唇は、
甘かった。
あの夜のことを、和谷は忘れることができなかった。震える唇や、ヒカルの身体から、
香る石鹸の匂い。閉じた瞼に涙を滲ませていたのが、暗闇でもはっきりとわかった。
アキラとのことを考えると、嫉妬で狂いそうだ。
―――――進藤は、本当にアイツとヤッているのかな…オレの考え過ぎじゃないか?
ファミレスでの二人は、仲のいいケンカ友達に見えないこともなかった。だが、遠慮の
ない会話の端々に見え隠れする、ヒカルの甘えるような仕草やアキラの慈しむような眼差しに
和谷は気づいていた。二人の間には、入り込めない何かがあった。
和谷は、その考えを振り払うように頭を振ると、もう一度目を閉じた。瞼の裏に裸で
絡み合うあの二人の姿が浮かんだ。きりきりとした痛みを胸の当たりに感じる。
「―――――くぅ……進藤…進藤!」
先ほどの夢の名残が、まだ、身の内にくすぶっていた。無意識に手が伸びた。
―――――ヒカルが欲しい…
掌に感じた熱さに、和谷は大きく肩で息をついた。
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「進藤はどうしてる?」
手合いの日の昼休み、緒方は思い切って、アキラに声をかけた。こんなことをアキラに
聞くのは、気が引けたが、本人に会えないのだから仕方がない。棋院でも会わないし、
緒方のマンションにも来ない。電話をかけてきたことは、ほとんどないし、何の用も
ないのに自分の方からかけるのも妙な気がした。
あの時はああいったものの、やはり、心配だった。マンションを出るときには、もう
いつものヒカルに戻っていたが、それから何の音沙汰もない。
アキラは、黙って緒方を見つめていたが、ふっと柔らかく笑うと
「大丈夫。元気ですよ。」
と、答えた。
『元気』と聞いて、少し安心したが、ヒカルの『元気』は、あまりあてにならない。
泣いているかとと思えば、拗ねているし、かと思えば、甘えてくるし……笑っているかと
思えば、ひどく悲しげだったりする。誰を思っているのか…寂しそうな遠くを見つめる瞳…。
「この前、森下門下の人や友達と花火大会したらしいです。とても、楽しかったって…」
「今度、二人で花火をする約束なんです。」
アキラの声は、静かで優しかった。緒方は改めて、アキラを見た。アキラは、人当たりが
よく、誰に対しても親切だ。だが、それはあくまでも一線を引いた優しさだ。こんな風に
慈しむような優しさではない。アキラは、変わったと思った。
「そうか…なら、いいんだ。」
ヒカルは、寂しいと言っていた。誰といても寂しいのだと…。楽しく過ごせているのなら
―――ヒカルがそう言っているのなら―――自分が、よけいな心配する必要などないのだが…。
考え込んでいる自分を、アキラが見つめていることに、緒方は気がつかなかった。
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アキラには緒方の気持ちがよくわかる。ヒカルのことが心配なのだ。以前の自分なら、
緒方が、ヒカルの名前を口にするだけで不愉快になっただろう。ヒカルを独占したかったから…。
今も、ヒカルを自分一人だけの物にしたい。でも、出来ない。
アキラが緒方くらい大人なら、それも可能だったかもしれない。だが、今の自分では、
ヒカルを受け止めきれない。ヒカルには、自分以外の大人が必要なのだ。
甘やかして、守ってくれる人が―――――
アキラは、緒方に激しい嫉妬と、それと同じくらいの信頼を感じた。奇妙な連帯感だ。
『緒方さん…変わったな…』
以前の緒方は、いつも口元にシニカルな笑みを浮かべ、厭世的な雰囲気を纏わり付かせて
いた。
こんな風におろおろと、他人を心配するような、人間ではなかった。
この人と自分は、以前、愛人関係だった……そのことを思い出すと、不思議な気持ちになる。
アキラはヒカルを愛しているし、緒方もヒカルに、ただの好意以上の感情を持っていることは
明白だ。それが、ヒカルを間に挟んで、ごく普通の会話をしている。しかも、どちらも
ヒカルの心配しているのが、何だかおかしい。
知らないうちに笑っていたらしい。緒方が怪訝な顔をして、自分を見ていた。
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「ボクは、進藤のことが一番大切なんです…」
緒方は、アキラをまじまじと見つめた。そんなことは、分かり切っている―――そう言いたげだ。
「だから、悲しませたくないし、進藤が辛そうなときは助けてあげたい…だから……
進藤が緒方さんを必要だと言うのなら…ボクは……」
先を続けることができない。自分はちゃんとわかっている。それなのに――――――
アキラは、唇を噛んで俯いてしまった。
緒方が軽くアキラの肩を叩いた。そして、そのまま自分の横を通り過ぎて、行ってしまった。
緒方は自分の言葉をどう受け取っただろうか?一人前の大人ぶろうとして、失敗したような
気がする。
「進藤に会いたいな…」
せめて声が聞きたい。ヒカルは、アキラにとってのビタミン剤だ。毎日会いたい。笑顔を
見たい。ずっと、一緒にいたい。
そんなことを考えていたとき、携帯が震えた。見覚えのないナンバー。訝しく思いながらも
出てみる。
『塔矢?オレ。』
――――――――驚いた。
『オレ、携帯買ったんだ。それで……どうかした?』
黙ったままのアキラに、ヒカルが不思議そうに訊ねた。
「……ううん。ちょうど声が聞きたいって思っていたから、びっくりして…」
『オレも…迷惑かなって思ったんだけど、話がしたくて。別に用事はネエんだけどさ…』
ヒカルが照れくさそうに笑った。聞きたかったヒカルの笑い声。
『実は、これ、家からかけているんだ。家の電話があるのにさ。分厚い説明書片手にな。』
アキラは、黙ってそれを聞いていた。ヒカルの声がもっと聞きたかった。
『塔矢?何で黙ってんだよ?オマエもしゃべれよ!オレ、オマエの声が聞きたくてかけて るんだぞ!』
「ごめん。」
アキラは、笑った。こんな他愛の会話で自分は、元気になれる。ヒカルの力はすごい。
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『………なあ、今度いつ会える?』
少し、沈んだ声。その気持ちは、アキラだって同じだ。
「明日から、地方に行くんだ。昼過ぎには出てしまうから…だから、来週なら…」
『…来週は、オレが……』
ヒカルは先を続けなかった。アキラも何も言えなくなった。当分会えないのかと思うと、
悲しくなる。さっきもらったばかりの元気も、三割ほど減ったような気がした。
『……花火…』
「えっ?」
『今度会ったとき、あの花火しような!』
そう言って、ヒカルは一方的に電話を切ってしまった。
ヒカルが切ってくれて助かった。自分からは、絶対に切ることが、できなかっただろう。
深く息を吸い込んで、呼吸を整える。
「さあ、頭を切り換えなくちゃな。」
七割り増しの元気を糧に、アキラは対局場へ戻った。
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