失着点・展界編 76 - 80
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伊角と和谷は連れ立って外へ出てヒカルがその後に続いていく感じになった。
二人はヒカルの方を振り返りもせず進んで行く。途中、碁会所があったが、
立ち寄る気配が無い。
「…伊角さん…?」
ヒカルが少し不安げに声をかけた。
「…ああ、ちょっと和谷の手を先に治療してやりたいんだ。こいつ、薬とか
全部アパートに置いて来たらしい。」
ドキリ、とヒカルの胸の奥が鳴った。和谷のアパートには出来れば二度と近付
きたくない。そんなヒカルの不安を見越したように和谷が声を掛けて来た。
「無理しなくていいぞ、進藤。ここまで一緒に来てくれただけで十分だ。
…塔矢のところに、今直ぐ戻れよ。」
ヒカルは迷った。まだ正午を過ぎたばかりの日ざしは高くて、町並みを
眩しく照らし出している。
「…オレ達が、怖いのか?オレもなのか?…進藤…。」
伊角が少し気落ちしたように言った。ヒカルは首を横に振った。
「怖くねえよ…。和谷はおいといて、オレ、伊角さん、信じてるから…」
半分冗談混じりに、自分に言い聞かせるように言ってみる。伊角は穏やかに
笑顔を見せる。今まで何かと自分の為に気遣ってくれて来た伊角の笑顔だ。
こんな明るくて長閑な時間に、彼等と何かが起こるはずがない。
それでもアパートの階段を登る時は、少し気後れがした。和谷と伊角は
先に部屋に入って行ってしまった。
「何なら、ドア、開けっ放しにしといて構わないぞ。」
覗き込むヒカルに和谷がそう言い、苦笑しながらヒカルはその部屋に入った。
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とりあえずヒカルは玄関に立ったままでいた。そこから見える範囲では、
やはり特に部屋が荒れている様子はない。部屋の中で和谷の手の手当てを
しているらしい話し声がする。
「イテテテッ、痛てーよ伊角さん!!」
「手じゃなくて一度頭を碁盤に打ちつけろよ。少しはまともになる。」
ヒカルはクスッと笑って靴を脱ぎ中を覗き込んだ。伊角が振り返った。
「進藤、そこの碁盤をこっちに引っ張り出してくれ。」
「う、うん。」
やはりここで検討会を始めるつもりなのだ。…まあ、いいか、とヒカルは
思った。畳にはカーペットが敷かれ、ボコボコだった物入れの戸には何か
ゲームの大きなポスターが貼ってあった。
和谷は伊角に手に包帯を巻いてもらうと、「さてと、」と、黒の碁笥を
引き寄せ、黒石を置いた。ヒカルがハッとなった。伊角も真剣に盤上を
見据えている。
「…今まで、あんな打ち方をする塔矢は見た事がなかった。」
和谷はついさっきの対局を並べ始める。僅か数手を見ただけでも、ヒカルと
伊角にはアキラの強さが分かった。和谷が中押したところまでそんなに
かからなかった。
塔矢は更に強くなっている。頭では分かっていたつもりだったが、和谷で
なくても、彼が希有の存在であり、その彼と同世代として生まれた事には
運命的なものを感じないではいられなかった。
「…本当に、スゲーや…、塔矢の奴…」
そう言ってヒカルが盤上の石に指を伸ばした時、和谷が、その手首を握った。
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ヒカルはギクリとした。そーっと手を退こうとするが、グッとさらに強く
握られる。和谷は、笑みを浮かべてヒカルを見つめている。
「本当は、どうでもいいんだよ。塔矢の事は…」
「…和谷…?」
ヒカルは咄嗟に伊角を見た。伊角は…ヒカルから目を逸らした。
「…伊角さ…」
グイッとヒカルの体が引っ張られて和谷の方に引き寄せられる。ヒカルの体が
碁盤にぶつかり石が散らばった。
「うわ…っ」
ヒカルは和谷の体の脇に倒れ込み、和谷がそのまま上にのしかかって来た。
「…止めろよ!」
ヒカルは和谷を押し退けようとするが、顔が覆いかぶさるように来て唇を
奪われる。それでも激しく足を振り上げて和谷の横腹を蹴り上げる。
「うっ」
和谷は顔を離し、ヒカルの両手首を掴んで床に押し付けたままヒカルの
腹の上に座り直す。ヒカルは肩で息をしながら、なおも体や足を動かして
和谷から逃れようとする。ヒカルの目は怒りに燃えていた。
「…もう一度キスしてみろ…舌を噛み切ってやる…!」
自分の事を裏切った和谷が許せなかった。そして、伊角も。何故だ、としか
頭に思い浮かばない。何故自分がこんな目に合わなければならないのか。
その伊角が、ゆっくりヒカルに近付いて来た。膝をついてヒカルの上半身に
被さるようにしてヒカルの頬を両手で挟み、睨みつけてくるヒカルに話す。
「…見たんだよ。オレ。…夜、お前が緒方先生の車に乗るところを…。」
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ヒカルの目の色が、怒りから動揺に変化する。
「あの時、やっぱりお前の事が気になって、途中まで様子を見ていたんだ。
家まで無事に帰れるかなって…。そしたらあの碁会所の前で誰かを待ってる
みたいで、塔矢は日本にいないのに何でだろうって思ったんだ。」
今度はヒカルが伊角から顔を背けるように横を向いた。
和谷が押さえつけていたヒカルの両手を、今度は伊角が掴み、ヒカルの顔の
両脇のところで床に押さえ直す。
「…その時はまさかって思った。でも、前もここであの事があった後、
緒方先生のところに泊まったっていう話しだったし…」
「あ、あれは本当に偶然…」
両手が自由になった和谷は、少し下がってヒカルのズボンのベルトを外した。
「…!」
ヒカルはもがこうとしたが、伊角にさらに強い力で押さえ付けられる。
「次の日の午前、お前の家に行く途中、緒方先生に車で送ってもらうお前を
見かけた。…車の中で、お前、何をした…?」
伊角に問われ、答えられず、ヒカルは目を閉じた。
「…緒方先生とは何もなかったって言うなら、舌を噛み切っていいよ。」
そう言われて突然伊角に唇を吸われ、ヒカルは驚いて目を見開いた。最初は
様子を見るように唇を重ね合わせただけで一度離れた。
「…進藤は、男とこうする事が、好きなのか…?」
二度目は舌が入って来た。ヒカルは歯を閉じようとして、噛む事が出来な
かった。それを了承とするように伊角はヒカルとの深いキスを交わし続けた。
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それは和谷と同じくらいぎこちない、荒っぽいキスだった。伊角自身
初めての経験なのか、次第に興奮し呼吸が荒くなって来る。
そのの最中に、ビクッとヒカルの体が反り返った。ズボンのファスナーを
下げて、露にされたヒカル自身を和谷が口に含んだのだった。
「うっ…ん!!」
ヒカルは首を振ってようやく伊角から顔を離した。涙が頬を伝った。何より、
信頼していた伊角にこういう事をされることが信じられなかったし辛かった。
精神的に拒否しても、和谷の局部への愛撫に肉体的に反応し熱い吐息が
漏れそうになる。そんな息の下でヒカルは問いた。
「…伊角さん…どうして…」
「…進藤が、無防備すぎたんだよ。言っただろう。お前は自覚がなさ過ぎる
って…。…オレもいつから変になったのかな…。」
伊角は熱い息と共にヒカルの耳たぶや首筋にキスを這わす。
「和谷の苦しみ様は、そばで見ていて辛かったよ。忘れられないんだよ。
お前の事が。もう一度だけ、もう一度抱きたいって…。」
「…っ!!」
伊角の愛撫と呼応するように、否応なしに下腹部の感覚も高められて行く。
「オレにも今、和谷の気持ちが分かる気がするよ…。」
ヒカルは必死に歯を食いしばり、到達させられる事に抗った。
「それでもギリギリまで迷った。和谷を思い留まらせないといけないって。
…だけど、今日の塔矢は…やり過ぎた。」
和谷が激しくヒカル自身を吸い立て、ヒカルの下肢がビクンと震えた。
「だから少しだけ、二人で塔矢から進藤を奪う事にしたんだ…。」
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