とびら 第六章 76 - 80
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こと切れたかのよう眠りに落ちたヒカルを、アキラと和谷は見た。
その顔は落ち着いていて、平和そのものだった。
それを見ていると、今までのやりとりが自分の妄想のような気がしてきた。
胸に染み入るような、冷たくひきしまった夜風が流れこんでくる。
それがのぼせた頭に心地よい。早くこのくらくらとした目眩を取りのぞいてほしい。
「どいてくれ」
不意に和谷に肩をつかまれ、そのままアキラは押しのけられた。
和谷はヒカルの身体を起こすと、手に持っていた浴衣を羽織らせた。
「和谷……」
アキラは何となくその顔を見た。そして総毛だった。
ほの暗い笑みが和谷の面に広がっていたからだ。
「すぐそばにいたのに、俺は少しも進藤の視界には入んなかったみたいだ」
ヒカルを背負った和谷が自嘲するように言った。アキラは言葉を返さなかった。
もう一度アキラは新しい浴衣を身につけた。脱衣所には四着の濡れた浴衣が残された。
二人は行きと変わらず、黙したまま部屋に戻った。
新しい布団にヒカルを寝かせると、二人はその左右にそれぞれうずくまった。
和谷もアキラもみじろぎもせず、ヒカルの寝顔だけを見つめていた。
しばらくそうしていたが、和谷が吐息とともに言葉をもらした。
「……良かったな。選ばれて」
抑揚のない口調だった。その横顔は真っ白だ。アキラは力なく言った。
「ボクはよくわからないよ。いきなりあんなことを言われても、信じられない」
わからない、選べない、このまま三人の関係をつづけたい、と今まで言っていたヒカルが、
どうして急に決断したのかアキラはまったく理解できなかった。
(結局ボクたちを取り残して、一人で勝手に納得したんだ、進藤は)
夢うつつに話していたし、目が覚めたらけろりと全部わすれているかもしれない。
だからアキラはあの言葉をうのみにするつもりはなかった。
と言うよりも、信じてそれが違ったとき、自分は立ち直れそうにない。
それほどヒカルの言葉は衝撃的だった。
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――――オレはおまえ以外、だれも選べないよ。
望んでいた言葉だ。しかし絶対に聞くことのできない言葉のはずだった。それなのに。
アキラは両腕で身体を強く抱きしめた。身体がふるえている。
和谷が急に立ち上がった。その目尻はつりあがっていた。
「かっこつけんなよ!! 素直によろこんだらどうだ!」
するどい罵声が飛んだ。
アキラはとっさに腕を顔のまえにやった。殴りそうな勢いだったからだ。
しかし和谷のこぶしがくることはなかった。
腕を外して、立ち上がっている和谷をアキラは見上げた。
和谷は笑っていた。アキラはこんなに絶望に満ちた笑いを、これまで見たことがなかった。
「……和谷」
「俺はこいつのなんだったんだ!? そりゃあ俺はおまえほど棋力はないさ。けど、恋愛に
そんなのは関係ないだろ!! 俺は進藤が好きだ。その気持ちだけじゃダメなのかよ!?」
「恋愛じゃないと思う」
和谷が驚いたようにアキラを見返してきた。アキラも自分の言葉に息をのんだ。
だがそういうことなのだと、アキラは思った。声を落としてつづける。
「そうだ、進藤は恋愛の相手としてボクを選んだわけじゃないんだ……」
碁を打つ相手として、自分を選んだのだ。まったく、今さらではないか。
プロになったヒカルと初めて打ったときに、アキラはすでに選んでいたというのに。
(進藤を生涯のライバルだと、ボクは確信した)
そして自分の場合、それに恋愛感情が加わったのだ。
しかしヒカルが同じような思いを抱くのには、とても時間がかかるように思えた。
ヒカルはどこか、人との距離をつかみきれていないところがある。
だからアキラが確信したことを、こんなややこしい関係を築いてからようやく理解するのだ。
自分は喜んでいいのだろうか。はっきりとヒカルの言葉を聞きたい。
「碁の相手として、か。つまり最初から俺のすることは、ムダだったってことか。そういう
ことだよな、進藤?」
奇妙に優しげな声音で和谷は言う。しかし眠っているヒカルにはその声は届かない。
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和谷は眠るヒカルに話しつづける。
「賭けに出たほうの勝ちってことか。どうせ俺は臆病だよ。卑怯なことをいっぱい考えたさ。
けど進藤! 俺はおまえが好きなんだ! もう一度チャンスをくれよ!」
必死の形相だった。アキラはそれを呆然と見つめた。
和谷のその姿は、自分のもののように思えた。そう、立場が逆だったかもしれないのだ。
ヒカルはアキラと和谷とつきあってきた。
しかしその関係が今、音もなく崩れていくのをアキラは感じた。
和谷はいきなり膝をつくと、両手で顔をおおって肩をふるわせた。
激しくせめぎあう心を押し殺しているように見えた。
「……俺は進藤が棋士じゃなかったら良かったって思っちまったんだ。こいつを蹴落として
でも、上に行きたいって俺は……」
「蹴落とす? なぜそう思うんだ。一緒に高めあっていったらいいじゃないか」
おまえにはわかんないよ、と和谷は力なく言った。
「きっと一生、おまえには俺の気持ちなんてわかんないよ」
「……ん……」
ヒカルが小さくうなり、そして目をひらいた。
不安げにまつげをしばたき、ヒカルは和谷を見た。
和谷はぎこちなく笑いかける。だがヒカルはそれから視線をすぐにそらすと、その脇にいる
アキラに目をとめた。安堵したように息を吐く。
和谷の顔がみるみる歪んでいった。
色が変わるほど唇をかんでいたが、和谷は立ち上がると部屋を出て行った。
ドアの閉まる音が、こんなにも胸を苦しくさせるものだとは思いもしなかった。
アキラは怒りがわいてきた。気付くと荒い語調で言っていた。
「きみはどうして和谷にそんな態度がとれるんだ!? あんまりじゃないか!」
「和谷……? いたのか?」
心臓を思い切りつかまれた気がした。
やはりヒカルは残酷だ。その無邪気さは息の根を止める。
「和谷はどこだ? オレは言わなきゃいけない。ごめん、って。オレは塔矢を……」
ヒカルに最後まで言わせず、アキラは怒鳴っていた。
「きみは勝手だ!」
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ヒカルはきょとんとしている。そのあどけない表情にイライラがつのる。
「どうして和谷にあんな態度をとったんだ!? もう少し思いやりを持ったらどうだ!」
「なんで塔矢が和谷のことで怒るんだ? おまえら仲良かったのか?」
「まさか。そんなことあるわけないだろう」
しかし和谷のことでヒカルに憤慨するのを、たしかに自分でもおかしく思えた。それに自分
がこんなふうに激昂するのは、傲慢かもしれない。この怒りは和谷のものなのだから。
「思いやりを持てって言われても、オレはおまえを選んだんだ。だから和谷とはもう……」
「選ぶというのはセックスの相手としてか? それとも碁の相手としてか?」
どうしても口調が皮肉っぽくなってしまう。しかしヒカルは気にしていないようだった。
「おまえって、いつも怒ってるのな……」
ヒカルの反応が悠長で、アキラはますます苛立ってきた。
「だれがそうさせてるんだ!! あれだけきみは和谷とボクを選べないと言っていたくせに、
いきなりなんなんだ! ボクを選ぶというのも、本当はからかってるだけじゃないのか!?」
「オレは本気だぜ」
思いのほか真剣な声にアキラはたじろいだ。だがこのまま済ますわけにはいかない。
「きみはボクに恋をしていないだろう?」
ヒカルはあっさりとうなずいてくれた。アキラは目をむいた。
なにもかもを通り越して、身体の力が抜けていく。そんなアキラにヒカルは言う。
「塔矢、オレはおまえがだれよりも大切だ。でも恋かと言われると、悪いけど、どうしても
首をかしげちまう」
それに、とヒカルは胸元の布団をにぎりしめた。
「おまえの言うオレの影は、きっと一生、消えない。オレが消したくないから。だけどオレ
はもう、おまえにそれを重ねたり、求めたりしない。塔矢、オレがおまえを見たら、おまえ
は戦うって言ったよな。なら戦ってくれよ。オレはおまえを見てるからさ」
それは終わりのないことのようにアキラには思えた。だがそれでも、答えは一つしかない。
アキラは気力をふりしぼって、一語一語を口にした。
「戦う。だから進藤、ボクのそばにいてほしい」
顔をしかめながらもヒカルは上半身を起こすと、アキラの顔を正面から見すえてきた。
「そばにいるよ、塔矢」
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自分のほうに伸ばされるヒカルの手を、アキラは不思議な思いで見ていた。
それは首の後ろにまわされた。その手のひらは驚くほど熱かった。
その熱を感じたまま、アキラは軽く引き寄せられた。
「……熱で気がおかしくなってるわけじゃないよね」
「おまえもホントにしつこいな。オレはちゃんと正気だから安心しろよ」
まだ何か言いかけるアキラの唇を、ヒカルがふさいだ。
少しも生々しくないキスは、アキラの懐疑心やわだかまりを簡単に消していった。
ヒカルが左右の横髪をかきあげてくる。
これからヒカルは何度でもこの髪に触れるだろう。そして自分もヒカルの髪に触れるのだ。
「塔矢、もうこれ以上はカンベン。身体がきついから」
気付くとアキラはヒカルを押し倒していた。無意識の行動に恥ずかしくなる。
呆れられただろうかとうかがうと、ヒカルは窓のほうを見ていた。
「光が漏れてる。朝が来たんだな。塔矢、外が見たい」
アキラは立ち上がると、障子をすべてあけた。窓から入る光がまぶしくて目を細める。
ほう、とヒカルが息を吐くのが聞こえた。
「塔矢、おまえ輝いてるよ」
それは自分が朝日を背にしているからだ。そう言おうとアキラはヒカルに振り返った。
そして思わず息をつまらせた。
ぼんやりとした薄暗い部屋のなかで、ヒカルだけがくっきりと浮かび上がって見えたのだ。
触れることも、近付くこともできない気がした。
(……進藤はボクのものではない。和谷がいなくても、それは変わらない)
自分はようやくスタートラインに立つことを許されたに過ぎないのだ。
だがあきらめずにいるかぎり、きっと前に進んでいける。
アキラはまばたきするのも忘れて、しばらくヒカルに見入っていた。
―――終わり―――
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