裏階段 アキラ編 77 - 78
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何か言ってやった方がいいかと思ったが、黙って見つめ、消した煙草の代りにコーヒーを
口に運ぶくらいしか出来なかった。
「緒方さんもアキラくんの制服姿がよく似合うって言っていたよ。」
芦原が他意なく話し、アキラがにこりと笑う。
頭では思っても口にした覚えはなかったが、芦原はそう聞いた気になっていたようなので
とくに否定しなかった。そういう顔をしていたのだろう。
「せっかくだから、お三人で。」
市河がカメラを構えて寄って来た。
「この場合、アキラくんを間にするべきかもしれないけど、ちょっとしのびないなあ。
真ん中は早死にするって言うだろ?」
「別にそんなの関係ないですよ、芦原さん。ボクは構いませんが…。」
「…オレは別にいい。芦原とアキラくん、2人で撮ってもらえ。」
そう言って立ち上がるとアキラが何かを言いたげにこちらを見た。
「そんな事言わないで、緒方先生。じゃあお二人ずつね。いいでしょう。」
市河に返事をする間もなくアキラが傍に立ち、カメラの方に顔を向けるよう目で要請してきた。
どんな顔をして写ればいいのやら、わからなかった。ただ、
嬉しそうにオレの隣に寄り添うアキラの表情は覚えている。
囲碁関係者に撮られたものは別にして、先生にあまり写真やビデオといった記録を残す趣味がなく
アキラのそういった日常で撮ったような写真は意外な程少ないらしい。
「…だからボクにとって、これは大切な写真の一枚なんです…。」
後日市河から預かった写真をオレに渡す時、アキラはそう言葉を添えた。
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それから暫く、アキラの事を思考の外側に押しやる必要があった。
タイトル戦への挑戦があった。
リーグ戦まではコンスタントに残れてもその先へ行けなければ意味がない。
小さなタイトルばかりが手元にあっても嬉しくはないのだ。
実感として、ようやく波が来つつある事を感じていた。
だがそれは並び立って名を上げて来た倉田四段、いや、段位は直ぐに追いつかれるだろう、
気紛れな神の手によるさざ波はわずかな隙で彼の方に向かうかもしれない状況だった。
碁の頂上への道はそのまま先生への道でもある。
先生は、十段戦を制し四冠を獲得していた。
紛れもなく日本囲碁界のトップ棋士だ。
十段位獲得の翌日、塔矢門下内で特に騒ぐ事なく普段通りに研究会は行われた。
その場にはアキラもいた。
研究会が終わって玄関を出て車に向かおうとするとアキラが見送りに出て来た。
「…名人にはおそれいったよ」
「ボクもそう思います。」
アキラはニコリと笑って答える。
「まだプロにもなっていないクセに。」
少しばかり意地の悪い言い方をしてしまったが、アキラは特に表情を変える事はなかった。
「生意気言ってすみません。」
「アキラくんもどこの馬の骨か分からない奴なんて追っかけていないで少しでも早く
プロになるんだな。」
さすがにアキラの表情が揺れた。
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