平安幻想秘聞録・第二章 8 - 10
(8)
まるっきり背中を向けるのも何なので、身体を横にし、なるべく俯く
ようにして、ちらりと男の方を見る。ヒカルが面を上げても、約束通り
こちらを見ないようにしてくれているらしい。
扇子で自身を扇ぐ姿もどこか品がある。身分の高い者なら、検非違使
である近衛と顔見知りということもないだろう。ヒカルは少しほっとし
て肩の力を抜いた。もっとも、ヒカルに袍(うえのきぬ)の色彩につい
ての知識があれば、相手の身分はすぐに分かったのだが。
男は別段ヒカルを気にすることもなく、ほろ酔いの気分に浸っている
ようだ。が、ヒカルが小さく息を吐いた拍子に、男がついというふうに
こちらに目をやり、そのまま絶句したのが見てとれた。
うわぁ、やっぱり知り合いなのかよ。焦りまくるものの、動くことの
できないヒカルに、男が片膝を立てて、こちらに身を乗り出した。
「そなた・・・」
今の今まで、たおやかな雰囲気を纏っていたのが嘘のように、相手の
表情が変わっていた。例えは悪いが、幽霊か死人でも見たような驚き方
だった。いや、それにしては、男の顔は青ざめる代わりに、赤く上気し
ている。首を傾げるヒカルに、また一歩、詰め寄って来る。
「そなた、名は何と言う?主人は、どなただ?」
先程、訊くのは野暮と雅に言って退けたのが、当の本人とは思えない
ような台詞だった。
「オ、オレは・・・」
「さぁ、名を、名を教えておくれ」
いく分、優しげにかけられた問いに、ヒカルがどう答えようかと視線
を逸らしたとき、男の背後から声高に誰かを呼ぶ声が聞こえた。
「・・・さま!どちらにいっらゃいますか?」
(9)
はっとしたように、男がそちらを振り返る。廊下を踏みしめるいくつ
かの足音が、この部屋の辺りに向かっているようだ。相手が気を取られ
たのを見て、ヒカルは、咄嗟に後ろの障子を開け、反対側の廊下へと飛
び出した。
「待たれよ!」
追い縋ろうとする男の声に、またいくつかの声が重なる。
「今、こちらの方で、お声が!」
「早く、早く、お迎えに上がるのだ」
そんな声を背に、ヒカルは振り返らずに走り続けた。どこをどう走っ
たのか、気がつけば、庭に面した廊下へと出てしまった。が、運のいい
ことに、そこは、ヒカルたちが履き物を脱いだ場所で、先刻、ここまで
案内をしてくれた衛士が、そこに座り番をしていた。
「あの・・・」
「何か?あぁ、お前は先程の」
被り物でヒカルの顔は見ていないはずだが、衣や袴の色や文様を覚え
ていたのだろう。衛士が灯りを持ってこちらに近づいて来る。
「どうされた?」
「えーと、その、迷っちまって・・・」
一瞬、衛士の目が呆れたように大きく見開かれたが、こんな広い屋敷
では珍しくもないのか、微かに口元に笑みを浮かべて、頷いた。
「緒方さまたちと、はぐれられたのか?」
「う、うん」
「それは心細いだろうな。部屋までお連れしようか?」
「それが、さっきの部屋で、知らない人に見つかっちゃって・・・」
「分かった。緒方さまに連絡をつけて来るから、こちらで待たれよ」
「うん、ありがとう」
照れ臭そうに微笑んだヒカルに、衛士が目を細める。何とか迷子を免
れてほっとしたヒカルは、相手が自分に見惚れているとは、まったく気
がついていなかった。
(10)
「昨夜、さる高貴なお方が、見目麗しい幻の君に心を奪われたと、内裏
でたいそう評判になっているそうですよ」
そう話を佐為に切り出したのは、朝餉が終わる頃を見計らったように
やって来た明だった。
「ほう、幻ですか?」
「何だよ、幽霊でも出たのか?」
扇子を片手に優雅に返した佐為の横で、多少、いやかなり疲れ気味の
ヒカルが口を挟む。昨夜は、衛士が戻って来るまでの小一時間、ずっと
濡れ縁の下に隠れていた上、結局、藤原行洋には会えず終いだったのだ。
骨折り損のくたびれもうけ、ということわざが思わず浮かんでしまった
くらいの疲労感だった。あんなに肝を冷やしたのも久しぶりなのに。
「人事じゃないんだよ、進藤」
「えっ、何でだよ?」
不思議そうに明を見るヒカルを押しとどめて、佐為が代わりに訊いた。
「明殿、そのさる高貴な方というのは、どなたですか?」
僕が隠しておいても、いずれお耳に入るでしょうからと前置きをして、
明はすっと背筋を伸ばし、その名を告げた。
「春の君です」
「春の・・・そうですか、それで、都一の陰陽師である明殿にお呼びが
かかったのですね」
「えぇ」
「誰だよ、春の君って?オレにも分かるように説明してよ」
一人、除け者にされたようで、ヒカルは気分が悪い。
「それより、光。昨夜、内裏で会ったお方のことを、もう少し詳しく訊
いてもいいですか?」
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