sai包囲網・中一の夏編 8 - 10
(8)
どうすれば、ボクがsaiのことを黙っているか・・・。
その言葉を進藤の口から聞けただけでも大収穫だが、ここで手を緩め
るつもりはない。掴んだと思った途端、指の間を擦り抜けるようにして
逃げてしまうキミだから。
「認めるんだね、キミがsaiだって」
「それは・・・」
囲碁部の三将として戦ったときの進藤は、確かに話にならなかった。
その前の練達さを知っているだけに、一瞬、我が目を疑ったくらいだ。
だけど、ワザとヘタに打ったんじゃないと、あのときの進藤の表情が物
語っている。小さな唇を噛み締め、大きな目から溢れそうになる涙を耐
えた、心底悔しそうな顔。ふと、そのときの進藤を思い出して、ぞくり
とした。
まだボクの知らない、キミの泣き顔を見てみたい。進藤、キミはボク
の中に今までなかった感情を見事なまでに引き出してくれる。キミと出
逢ってからというものの、自分が醜いまでに貪欲だという事実を突きつ
けられてばかりだ。
「あっちが本当の実力だと言い張るんなら、ボクは、もう二度とキミの
前には現れないよ」
「えっ」
歩き出しかけたボクを、慌てて進藤が呼び止める。
「ま・・・待てよ、塔矢!」
殊更、ゆっくりと振り返ると、ぐっと手を握り込み、せっぱ詰まった
ような表情の進藤がこちらに足を踏み出していた。
「さっきの話はどうなったんだよ!オレがsaiだって、言いふらすつ
もりなのか?」
そう、進藤。ボクと会えなくなることより、そっちの方がキミにとっ
ては大事なんだね。
(9)
「もちろん、saiのことは話すよ」
「話すって、誰に?おまえの親父に?」
「さっき言っただろう?saiが誰か知りたがってる人がたくさんいる
んだって。あの日、彼との再戦が決まった後、詳しいことが分かったら
教えて欲しいと、口々に言われたからね」
「うっ・・・」
せいぜいお父さんに話すくらいしか思っていなかったらしく、進藤が
言葉に詰まる。
「とりあえず緒方さんには話すつもりだよ。ずいぶんと気にしてたから」
「緒方・・・さん?」
「キミも一度逢ったことがあるはずだよ。ボクの兄弟子でね、キミがお
父さんと打ったとき、そばにいただろう」
「あっ、アイツ・・・」
倍ほども年の違う緒方さんをアイツ呼ばわりするところも進藤らしい。
「今は、キミとsaiの関係は、ボクしか知らない」
だけど、ここで別れた後はどうなるかは分からないと、水を向ける。
そのまま沈黙した進藤が、口を開くのを待つ。長くも短くもないその時
間は不思議と楽しかった。たぶん今の彼の頭の中は、ボクのことでいっ
ぱいのはずだ。
「ここじゃ、困る。話、長くなるし・・・」
「いいよ。場所を変えよう」
「おまえんとこの碁会所に行くのか?」
「いや。あのビルの最上階のフロアもお父さんが借りてる。普段は使っ
ていないから、ゆっくりと話せるよ」
どうする?と目で問うと、進藤が小さく頷いた。一度、ネットカフェ
へと戻った彼を待って、再び歩き出したボクの後ろをただ黙ってついて
来る。
以前は、ボクに手を引かれて来たけれど、今度はキミが自らの意志で
歩いて来るんだ。それを忘れちゃ、ダメだよ。
(10)
「碁会所に寄っていかなくていいのか?」
囲碁サロンの階を素通りしたボクに、進藤が不安そうに声をかける。
「その必要はないよ。鍵はボクが持ってるし、出入りも自由だ」
むしろ、市河さんや碁会所のお客さんに逢わないように、わざわざ裏
の通用口に回ったくらいだ。
「さぁ、どうぞ」
使っていないとは言っても、週に一度は掃除をして貰ってるお陰で、
中は清潔で快適だ。先に進藤を奥に入らせ、いつもそこに置いてあるは
ずのものを棚から取り出し、パンツのポケットにしまった。これが必要
になるかどうかは、彼の出方次第だけれど。
座るように勧めた応接セット、進藤は一人がけの椅子ではなくソファ
の方に、なぜか大きく右側を開けて、腰を下ろした。
「先に飲む?」
下の自動販売機で買ったスポーツドリンクを、彼の前に置いてやる。
「あっ、サンキュ」
冷てぇと言いながら三分の一まで飲んだ後、おまえは信じられないか
も知れないけれどと、進藤が切り出した話は、確かにすぐには信じられ
ないものだった。
平安時代、帝の囲碁指南役であった藤原佐為という人物が、その死後
も神の一手を求める余りに成仏できずに進藤に取り憑いている。しかも、
進藤の前はあの本因坊秀策に代わって碁を打っていた・・・。
もし、ボクがまったく碁を知らなかったのなら、頭から信じなかった。
ただの進藤の妄想か、それとも虚言癖があるのかと疑っただろう。
だけど、ボクは初めて相対したときの、進藤の打ち筋を知っている。
過去の産物とは言わないまでも、今ではあまり使われることのない古い
定石、それを補って余りあるほどの棋力。そして、奇しくも、あのアマ
の囲碁大会の会場で、誰かがsaiを評して言った言葉・・・。
本因坊秀策が現代の定石を学んだような・・・。
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