平安幻想秘聞録・第三章 8 - 11


(8)
「な、何で?」
「無事なら無事で、正式に挨拶に来るのが筋と言うものだろうと」
 藤原行洋が、近衛光はまだ病み上がりの身、窶れて見苦しいところを
帝にお見せするのは申し訳ないと申しておりました。そう取りなしたお
陰で、帝も一度は納得したらしいが。
「春の君が、ならば光を参内させて、帝がお声をおかけになれば、闘病
の励みとなりましょうと、おっしゃったそうですよ」
 もちろん、身分の低い検非違使をわざわざ帝が御前に召すことはない。
囲碁指南のために参内する佐為の護衛としてヒカルも付き添い、あくま
で偶然に帝と出くわすという段取りになっているらしい。そして、その
場に東宮も、これまた、たまたま居合わすことになるのだ。
「うわー、姑息だな、東宮」
 歯に衣着せぬ物言いで腕組みをするヒカルに、佐為と明は思わず顔を
見合わせた。
「とりあえず、行くしかないか」
「そうですね」
「俺の顔を改めて見れば、東宮も目が覚めるだろうしさ」
 何しろ、御所でもここでも、明るいところで顔を合わせたことはない
のだ。ヒカルの方は、まだまともに東宮の顔さえ見ていない。
「・・・だといいんだが」
 自分の容姿の美醜に頓着しないヒカルを、明は心配になる。例えば、
市中をどんなに目立たぬ服装で歩いたとしても、人目を引かずにはおか
ないほどに見目麗しい容貌なのだ、ヒカルは。もっとも、当の明も他人
のことを言えないところがあるのだが。
「文には早急にとありましたね?具体的にはいつです?」


(9)
「できれば明日にでもと」
「佐為は大丈夫なのか?」
「こんなときですから、何より光を優先しますよ」
「分かった。いいよ。嫌なことを後回しにしても仕方ないもんな」
 きっぱり言い切ったヒカルに、佐為も覚悟を決めて頷いた。こうして
佐為が行洋に文を返し、ヒカルは明日の早い時間に近衛光として御所へ
と参内することとなった。


「はぁ、あぁん・・・」
 気持ちが高ぶって眠れないまま、ヒカルは佐為の部屋へと赴き、褥を
共にした。時の最高権力者と顔を合わせることへの緊張。自分に懸想し
ているらしい東宮の思惑もまだ分からない。自分に味方してくれている
佐為や明、それに行洋に対する申し訳ないという気持ち。そして、近衛
と顔見知りの者に会ってしまうのではないかという不安。それがない交
ぜになって、ヒカルに襲いかかって来ていた。
 それを、一瞬でもいいから忘れたかった。ただ、疲れて泥のように眠
れるように、抱いて欲しい。
「光、光・・・」
 不安は、佐為にとっても同じであった。二年前に、光を失ったように、
この腕の中の少年もなくしてしまうのではないかと、正気でいては考え
なくても良いことに思いを巡らせてしまう。
 二人の気持ちを表すように、その夜の情交は、いつもより深く激しい
ものになった・・・。


(10)
 翌日。ヒカルと佐為は早朝に人目を憚るように参内し、帝との約束の
刻まで、気を落ち着けるように碁盤を挟んで対峙していた。対局に夢中
になっている間、ヒカルの集中力は半端ではなくなる。佐為もまた静か
碁石を置き、ヒカルの手に応えるだけで、言葉はなかった。囲碁は手談、
行き交う碁石の筋だけで、二人の想いは通じ合っていたのかも知れない。
 二人は、そろそろお時間ですと、行洋が寄こした従者(ずさ)が呼び
に来るまで、ただひたすらに打ち続けていた。
「行こう、佐為」
「はい」
 ヒカルたちが向かった先は、帝が日常生活を送る清涼殿から内宴など
が行われる承香殿へと続く渡殿(わたどの)の途中だった。後宮七殿の
一つ、弘徽殿の女御の指導碁の帰りに、帝と偶然出くわす手はずになっ
ており、尊い身分の殿上人が住まう場所だけに、衛士は多いが、関係の
ない貴族たちを閉め出すことができる利点もあった。
 ヒカルは無言で佐為の後ろをついて歩く。廊下の先にたくさんの付き
人を従えた帝らしい人の姿を見て、ヒカルは速くなる鼓動を押さえよう
と深呼吸をした。そして、佐為に倣って廊下の端へと座し頭を低くする。
「これは佐為殿、弘徽殿の指導碁のお帰りか?」
「はい。弘徽殿の女御さまは、とても熱心でいらっしゃいますから」
 恭しく帝に礼をした後、佐為が打ち合わせ通りに返す。
「うむ。これからもよろしく頼むぞ」
「はい」
「ときに・・・」
 見えないまでも帝の視軸がこちらに向いた気配を感じて、ヒカルは床
についた手にぐっと力を込めた。


(11)
「そこにおる佐為殿のお付きの者は、検非違使の近衛光ではないか?」
「そうでございます」
 帝の問いに答えるのはもちろん佐為だ。近衛光の身分では、帝からの
特別なお声掛かりがない限り、直接言葉を交わすことさえできない。
「一昨年の大雨の折り、行方知らずになったと聞いておったが?」
「はい。近衛光は・・・」
 打ち合わせ通り、佐為が続けようとしたとき、帝がそれを制した。
「佐為殿。その辺りは、近衛光に直に伺うとしよう」
「ですが・・・」
「身分のことを気にしておるのか?近衛光は、都の有事を救った立役者
だあろう。それに、以前、二言三言、言葉を交わしておる」
 だから苦しゅうないということなのだろうが、ヒカルにしてみれば話
が違うというところだ。が、帝が光の答えを待っている様子がありあり
と窺える。このまま黙っていても不敬罪になるだけだ。
ダメで元々!平身低頭の状態のまま、ヒカルは覚悟を決めて、大きく
息を吸った。
「お、恐れながら、帝に申し上げます」
「うむ」
「私、近衛光が昨年、任務に赴いた先で不覚にも濁流に飲まれたことは、
お聞きになっていることと思います」
「そうであったな。して、そなた。今までどこにおったのだ?」
「はい。私が落ちました川は、大雨により水かさも増し、流れも速くな
っておりました。水を飲み、気を失った私は、思いも寄らぬほど川下に
流されました」
 不思議なことに、話を切り出した途端、自然と言葉が出てくる。澱み
のないヒカルの口上に、帝がほうと感嘆の声を上げた。



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