裏階段 アキラ編 81 - 85


(81)
大抵の相手が一度きりだったのがそいつに限って何度か引き会わされた。
変わった男で、ただ普通に碁を打ち、時折オレの髪や手に触れるだけで
満足して帰っていった。
よほどオレの事が気に入ったのか、伯父に内緒として小遣いを置いていく事もあった。
裕福な資産家の嫡男で、その嗜好のせいで独身であるらしかった。
伯父以外にも多くの相手に金を貸し、その関係で面倒に巻き込まれ結局
自殺してしまったという。
その男が桑原の門下生だった可能性があることを何かの拍子に知った。
ただ、オレの相手になっていた頃は既に破門されていたという事だったが。

桑原がその男の件で―つまりオレの過去の事で何か知っているような事を
匂わせる発言は今だかつてしてない。
ただ、嫌な感じがする。それだけだ。
先生は桑原と交流があり、桑原を尊敬している。
先生が信頼を持てる相手なのなら、そういう部分において信じられる。
そう考えるしかない。
気にする事は何もないのだろう。桑原と打つ若手の誰もがそれなりに嫌悪感を抱いた。
「対局前に桑原本因坊と言葉を交わさない方が良いよ。」
そういう話もよく耳にした。


(82)
そうして対局の時が来た。
だがその碁聖戦では、桑原は言葉では特に何も語らず、
老獪なる打ち手は意外にも真っ向から力碁でねじ伏せに来た。
それならばこちらに分があると思った。
僅かにも驕りと隙があったのだろう。
全てが後手に回り、追い付けず投了するしかなかった。
「塔矢門下きってのキレ者と聞いて楽しみにしておったが、
…まあ、こんなもんかのう。」
好々爺に笑みながら席を立つ桑原の後ろ姿を膝の上で手を握りしめて
見送るしかなかった。

立続けに緊張感を伴う大きな対局が暫く続き、それがようやく途切れた。
「緒方さん、この間に温泉でも行って来たらどうです?
リフレッシュも大切ですよ。」
芦原なりにそれとなく気を使って言ってくれたのだろう。
久しぶりに顔を出した碁会所で会った早々そう声を掛けられた。
蝉の煩さが気になり始めたこの季節に温泉という気分でもないだろう。
「そこまで疲労してはいないよ。」
「緒方さんが来ない間、ボク、大変だったんですよ。アキラくんの特訓に
つき合わされて。」


(83)
「特訓?」
芦原は小声になった。
「…アキラくんがそう言ったわけじゃないけど、中学の囲碁の大会、…今日だっけ。
なんでもアキラくんを負かしたっていう例の子が出て来るんでしょう?
アキラくん、コワイくらい気合い入っていて、何度も対局させられました。」
小声で話していたにも関わらず聞き付けたのか、常連客の老人が言葉を挟んだ。
「うちらとしては一刻も早くアキラ先生にはプロになって欲しいところですがねエ。」

中学生になった事で一層アキラをプロへとせき立てる声が周囲で高まっているのは
知っていた。先生の後援会会長は前回アキラがプロ試験を見送った事にさえも
何か小言を言ってきたらしい。親子鷹を好む風潮は根強いものがある。
今日、某かの結論が出る事だろう。
アキラがやって来るような気がして、その日は早々にマンションに戻った。
先生は桑原との碁聖防衛戦で地方に滞在中のはずである。
アキラと食事でもして、ゆっくり進藤との一局を検討してやってもいい。

夕方になってインターホンが鳴った。
「…ボクです。…いいですか?」
通話器越しに聞こえてきたアキラの声は想像していたものより低く、大きな
失意を抱いているのは明らかだった。


(84)
玄関のドアを開けると湿度を含んだ外の熱気が室内に流れ込んだ。
そこに海王中の制服のままのアキラが立っていた。
疲労感を滲ませたアキラのその表情から今日の進藤との対局がどういうものに
終わったか、想像がついた。
それはオレも先生も可能性として心配していたところだった。
アキラが全力を尽くしてなおかなわない相手などそういない。少なくとも日本においては。
過度の期待は手痛い反動を呼ぶ。
「理想的なライバルはそんなに都合良くは現れてくれないものさ。良くわかっただろう。」

「…上がってもいいですか?」
「どうぞ。」
オレの言葉に反応する様子もなく、アキラはそのまま無言でリビングに向かう。
てっきりキッチンで何か冷たいものでも飲むつもりだろうと思っていたが、
そこを通り過ぎて奥のバスルームのドアの前まで行く。
アキラはその場で服を脱ぎ始めた。
「おいっ…」
驚いて声を掛けたがアキラはこちらに背を向けたまま全裸になった。
真っ白な背中から腰にかけてのラインと丸い臀部が露になった。
そしてアキラは一瞬こちらを振り返ると睨むようにオレを見つめて、
バスルームに入っていった。シャワーを使う音がした。


(85)
呆気にとられたようにして溜め息をつき、乱雑に脱ぎ捨てられたアキラの服を拾った。
夏の雑踏を歩いて来た、若さ相応の汗の匂いを感じた。
制服はハンガーに掛け、それ以外のものは洗濯機に放り込んだ。
以前アキラが泊まりに来ていた頃に残していった服の類はもう小さくなっている。
仕方なくオレのバスローブを脱衣所のカゴに置いてやった。
ソファーに腰掛けて雑誌を開く。
だが内容が頭に入るわけではない。
頭に血が登っている彼に、彼のプライドを傷つけることなく宥める方法を
考えていた。
「よけいな事を言うんじゃなかったな…。」
後悔は先に立たずだった。

しばらくしてバスローブを着て
頭からバスタオルを被ったアキラが出てきた。
脱衣所の前に立ったまま、タオルの中の、濡れた前髪の間からオレを黙って見つめている。
「ここに座りなさい、アキラくん。…とにかく話を聞こう。」
雑誌を傍らに置き、隣に座らせるつもりで腰を少し移動させた。
アキラは傍までは素直に寄って来た。
だがソファーに座るのではなく、膝を乗せて上に登って来た。



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