裏階段 ヒカル編 81 - 85
(81)
進藤はサイダーのペットボトルを呷りながら戻って来た。
「はい、緒方先生のぶん」
ポケットからホットの缶コーヒーを出してよこす。
「ほお、意外に気が効くじゃないか」
「っていうかさー、どこまで行くの?オレ疲れちゃった」
「いや、特に決めていない」
「はア?」
進藤がきょとんとした顔で驚く。
「じゃあオレって、緒方先生に適当に連れまわされているわけ?」
「どこか行きたいところはあるかい?」
こちらがそう聞き返すと進藤は呆れたように肩を落とした。
「…緒方先生ってさ、実はすっごい適当な人だったりするんだね…」
「綿密な計画を立てたところで、ちょっとしたことでぐだぐだになったりするもんだ。」
そう。ちょっとした出会いで、人の人生は悲しいほどに大きく変わって行く。
だが人はそれまでの人生観を根こそぎ変えられてしまうような出会いを本当は期待している。
自分の人生が変えられる事を恐れぬ者だけが得難いものを得られる。
恐れや葛藤は付きまとうが。
若いうちはいい。変化の度合いに感覚を調律し直せる。
中途半端な世代だったオレは変化に遅れをとった。
桑原や先生が鮮やかに転身出来たことに比べると情けないものだった。
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当時、進藤に関しては常に霞がかったものが晴れないままだったが、いつまでも
その件ばかりを追いかけているわけにはいかなかった。
進藤と先生との対局を見せられた事によってますますわからなくなっていたが。
稀代の天才棋士なのか、それともハッタリだけのペテン師なのか。
アキラもこうして彼に捕らえられていったのだろう。
そういう部分では、アキラとオレは似ている。冷静に振る舞おう、対処しようと
するあまり泥沼にハマっていく。青臭いプライドがそうさせる。
もっと早く、強引にでも進藤を問いつめ、全てを吐かせるべきだった。
そうすれば先生のsaiに対する執着ももっと別のかたちになったはずだ。
実力がなければ院生になろうとは思わなかっただろう。
『でも進藤は院生になった』
実力がなければプロにはなれなかったはずだ。
『でも彼はプロになった。…そして、緒方さんや桑原先生の前で、父と打っている…。』
アキラの進藤に対する怯えのような感覚がようやく理解出来た。
まだ距離があると思っていた相手がいつの間にかすぐ傍まで迫って来ていた事、
その相手があっという間に自分を乗り越えて、自分にとって遥か遠い目標であった者を
捉えつつあるという恐怖。
先生が本格的に進藤に興味を持ち始めたのは確かだった。いや、もしかしたら先生は
初めて碁会所で進藤と僅か数手を打ち合った時からそれを予感し感じていたのかもしれない。
先生と進藤が向き合い、他の誰にも手を出せない世界を構築する。
そんな場面は想像したくもない。
進藤に向きかけた先生の視界をこちらに向かせる必要があった。
まだその時はその自信があった。こちらも必死だった。
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十段戦は気合いで半々の勝敗に持ち込んだ。もちろんこのタイトルを奪ったからと言って
先生に追い付き肩を並べられるというものではない。
それでも他のなによりも今のオレを支えてくれる事には違いなかった。
…父さんがあなたを見てくれていた事などあったかと思ってる?本当に?
…ボクにはそれが見ていられなかった…あなたがかわいそうで…
同情的な視線を投げかけるアキラの白い首を思わず自らの手で掴み、絞る。次の瞬間アキラの黒髪から
色素が抜け落ちて進藤の顔に変化する。思いっきり絞めても苦しげな表情一つなく、不敵な笑みさえ
浮かべてオレを見る。
…塔矢先生はオレに夢中だよ…今にそうなる…
うなされて目が覚める。頭痛がして吐き気がした。
かつて一度アキラの首を絞めた、あの時の感触がまだ生々しく残っている。
冷たい水で手と顔を洗っている時に電話のコールが鳴った。
受話器を取ると直ぐに相手がアキラだとわかった。
張り詰めたような息づかいが伝わって来て、悪夢の続きを聞かされるような嫌な予感がした。
「どうしたんだ?アキラくん」
「―お父さんが…」
かつてなく弱々しく掠れて消え入りそうなアキラの声だった。
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アキラから先生が倒れたという話を聞いた時、くらりと、足下が揺れた気がした。
それでもあくまで電話口では冷静に対応し、状況を手短に話させた。
アキラは病院から電話を掛けて来ていた。アキラと入れ違いに棋院関係者から連絡が入った。
次の日十段戦対局の行われる愛媛に向かった。それがしきたりだった。
会場の、碁盤を挟んで正座し先生を待つ間、碁の神を呪った。
すぐそこまで、先生の体に指先がかかるところだったのだ。
一度だけ深く結びつき、そして気の遠くなるほど離れてしまった存在にやっと
辿り着けるかどうかの瀬戸際なのだ。
奪われてなるものか、オレが先生から奪うまでは、誰にも先生から何一つ奪わせたくはない。
だがやはりその日は先生は来なかった。
とりあえず東京に戻って先生に会いに行く事にした。
病院の廊下の蛍光灯は青白く陰うつな影をすれ違う人々の顔色に落とした。
思ったより人がいないのは、すぐに意識は戻った事や比較的容態が軽いという情報がすぐに
明子夫人からしっかりした説明があったからだった。
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ノックをすると先生の返事が聞こえた。
たまたま、食事にも出たのか、室内に夫人もアキラも居なかった。
病室に入ると先生が横になっていた。先生がこちらに顔を向け、「ああ」と頷く。
どことなく浮遊したような視線ではあったが意識ははっきりしているように見えた。
いつも凛と正座した姿しか見ていなかった自分には十分痛々しく見えた。
「…すまなかったね、行けなくて」
オレは首を横に振った。しばらく互いに言葉はなかった。
「あの時」以来、先生と直に触れあった事は一度もない。指の先すらも。
そうある事で先生の傍らに居る事が許されてきた。
その反動がアキラに向いたとも言えたが。
ふいに、横たわっている先生に何もかも告白したいという衝動が沸き起こった。
「緒方くん…」
オレよりも先に先生の口が動いた。
「…もしも私に何かあったら…その時は…、」
体が凍り付いたように強張ったまま、先生の言葉を聞いた。
「…アキラを…よろしく頼む。あれは…君を誰より…」
ふうっと先生は深く呼吸をすると、眠りに落ちた。
ガチャリと静かにドアが開く音がして、弾かれたように振り返ると夫人とアキラの姿があった。
「まあ、緒方さん、…」
夫人がホッとしたような安堵の表情でオレを見る。
「ごめんなさいね、主人はさっき薬を飲んだので、眠ってしまっていたでしょう」
「あ、…はい、こちらこそ突然で申し訳ない…。お疲れでしょう、アキラくんも」
夫人以上にアキラはひどくやつれたような表情をしていた。もちろん、当人はそれを
感じさせないよう姿勢や顔つきを引き締めていたが、それがかえって痛々しく感じた。
アキラと会うのは新初段シリーズ以来だった。
病院で先生に付き添う明子夫人を残してアキラを家まで送った。
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