平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 85 - 86
(85)
あの忌まわしい夜の思い出の中のヒカルは、その時、自分は何も出来なかったと
いう後悔の念とともに、何処までも痛々しいものとしてアキラの脳裏に刻み付け
られていたが、今日の彼は、自分の腕の内で積極的に快楽の沼に身を投げ出し、
全身でそれを享受しようとしていた。
受け止めるだけではない。能動的にアキラを引き寄せ、耳や胸を軽く噛んだりも
した。
誰が、こんな彼を作り出したのだろう。
そんなことは考えなくてもわかっている。
今は姿を消した、あの美しい人が、ヒカルをあんな風にしたのだ。
以前の自分なら、ヒカルと彼の閨事など想像したこともなかった。
そもそも、その手のことに想像するための知識が圧倒的に不足していた。
だが、今はそれがどんなだったか、自分は知っている。
他ならぬヒカルが教えてくれたのだ。この手を導き、唇をふさいで。
なまじ、藤原佐為とも親交が深かっただけに始末が悪かった。
目を閉じれば、あの白い腕がヒカルの腰をまさぐるさまを想像してしまう。
かの人がどうやってあの体を貫き、ヒカルがどうそれに応えたか、まぶたの
裏に思い描いてしまう。
優しげで落ち着いた声が「ヒカル」と名を呼び、ヒカルがそれに嬌声で答える。
文机に伏したまま、アキラはその光景を打ち消そうと、髪をかきむしった。
その夜、アキラの心を満たしたのは、想い人をはじめて抱いた満足感などでは
なかった。
身を焦がすような嫉妬だったのである。
(86)
『ヒカル』
と、懐しい声が、名を呼ぶ気がする。
向かいに座る人もない碁盤と対峙して、ヒカルは音もなくそこに石を置いた。
『ほら、ヒカル。どうしてヒカルは考えもなく、そこに置きますか。ここは
はさむより開いた方がいいんです』
『別にいいじゃん、置きたいところに置いてかまわないんだろ?』
『でも、これでは勝負の行方が』
『いいよ、勝ち負けは。遊びだし』
『あ、遊びとはなんです、遊びとは! 囲碁というのはですねぇ、打つ手の
一手一手に、その人の品格というものが実に如実に現れるものなのです。
もっと真剣に……』
『あーーー、わかったから、次の手、打ってよ、佐為』
『………』
佐為の困ったように潜められた柳眉に見とれたところで目が覚めた。
今、もう佐為の思い出は、以前のように彼の胸をキリキリと痛めつけることはない。
それは秋の名残の赤い葉が、川面に落ちてどこか遠くに流れていくのを眺めている
気持ちにも似ていた。
十一月にもなると、宮中はにわかに落ち着かなくなる。
渡殿を行き交う女房たちの足運びも、気のせいかせわしない。
なにしろ、この霜月は睦月についで忙しい。新嘗祭、豊明節会、五節舞と大きな
行事が立て続けにある。
毎日の参議の内容も、まつりごと向きよりも、自然と近く行われる祭事の手順やら
役の割り振りやらの話が大部分をしめるようになるのだ。
もっとも、帝の御目にとまるような華々しい役どころは、すでに先の月のうちに
決められてしまってはいたが。
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