Linkage 86 - 90
(86)
凍てつくような冷たい酒が通り過ぎた後の喉は、ただひたすら熱く、ひりひりと痛む。
「……正気の沙汰じゃないな、まったく……」
低くそう呟いて、おもむろに顔を上げると、テーブル上のショットグラスを手に取り、
中の液体をグラスの縁を撫でるようにゆっくりと転がした。
ガラス越しに伝わる液体の温度と、グラスを持つ指先の温度が次第に同化していく。
その氷結しそうなほどの冷たさが、酔いの回り始めた緒方の朦朧とする意識を現実へ
引き戻す役割を果たしていた。
「素面の方がよほど酔っているとは、オレもいよいよ焼きが回ったか?
……一体、オレは何に酔ったっていうんだ……」
そう言い捨てると、グラスの中身をゆっくりと飲み込み、空のグラスをなんとか
テーブルに置いた。
そのままソファの背凭れに、だらしなく上半身を沈み込ませる。
前方の窓ガラス越しには、冬の午後の乾いた空が広がっていた。
あまりの日差しの強さに、思わず薄い榛色の瞳を閉じた緒方は、窓際のテレビが
ソファに影を落とす方向に頭を向け、横たわった。
暖かい午後の日差しがソファに横になった緒方の胸部から下肢にかけてを照らす。
「……今頃……アキラ君は学校か……。彼は小学生だぞ……?…そんな子に……
欲情して…どうする……」
酒の酔いから来る眠気を日差しの暖かさが後押しする中、緒方はとぎれとぎれに
そう呟くと、睡魔にその身を委ね、深い眠りについた。
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インターホンが鳴ったのは、リビングに差し込む日の光が傾き始めた頃だった。
緒方は物憂げに身を起こすと、ずれた眼鏡を直し、ゆっくりとソファから立ち上がった。
頭がひどく痛む。
眉間の周辺を指で何度も押さえながら、壁に掛かったインターホンの受話器を手にすると、
怠そうに「はい」とだけ返事をした。
──緒方さん?……ボクなんですけど……。
聞き覚えのある声に、一瞬にして眠気が吹っ飛ぶ。
「……アキラ君かい?」
──そうです。今、いいですか?
しばらくの間考え込んでいた緒方だったが、やがて大きく息を吐き出すと、改めて
受話器を握り直した。
「……ああ、いいよ。今、開けるから」
マンションの入り口のオートロックを解除し、受話器を戻すと、緒方は思わず頭を振った。
両手で髪を整え衣服の乱れを直すと、玄関へ向かう。
程無くして、玄関ドア越しにアキラの足音が聞こえてくると、ロックを解除し、僅かに
ドアを押した。
「……緒方さん?」
隙間から小声で確認してくるアキラにぶつからないよう、ゆっくりと緒方がドアを押し
開けると、目の前にはスタンドカラーのジャケットに膝下丈のズボン姿のアキラが
ランドセルを背負って少し照れ臭そうに立っていた。
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「突然来て、ごめんなさい」
アキラは申し訳なさそうに緒方の顔を覗き込んだ。
「構わないさ。昨日もそうだっただろ?アキラ君はいつも突然の来訪者だからな」
緒方は苦笑しながらも優しくそう言うと、アキラに中へ入るよう促す。
アキラはホッとした様子で玄関に入り、革靴の紐を解いて靴を脱ぐと、それをきちんと揃えて並べた。
緒方の招きに従いリビングへ向かう。
「学校帰りに寄るには、ここは遠かっただろう?」
緒方の言葉に首を横に振ると、アキラは緒方が手で示した先にあるソファに浅く腰掛けた。
「今、片付けるから、ちょっと待っててくれ」
テーブルの上の酒瓶とショットグラスを手に取ると、緒方は慌ただしく台所へ向かった。
程無くしてペリエのボトルとグラスを2つ載せたステンレスのトレイを片手に戻って来きた緒方は、
アキラの横に腰掛ける。
「アキラ君用にペリエをボトルキープしておかないとな、ハハハ。……どうした?ランドセルを
置かないのか?」
アキラの前に置いたグラスにペリエを注ぎながら緒方が尋ねると、アキラは膝の上に置いた手を
じっと見つめたまま答えた。
「……すぐに帰るつもりで来たんです。緒方さん、月曜日はいつも碁会所に来るのに、今日は来て
ないから、ちょっと心配になって……」
(小学生に心配されるとはな……)
自分のグラスにペリエを注ぎ終えた緒方は、ボトルをテーブルに置くと、アキラのランドセルに
手を伸ばした。
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「心配かけて済まなかったな、アキラ君。……そうだな、今日は碁会所に行く日だったな……。
それにしても随分重いぞ、このランドセルは」
そう言ってアキラの背中からランドセルを下ろしてやると、緒方はそれをアキラの座るすぐ横に置いた。
「まあ飲んでくれよ。お気に入りだろ?」
緒方が差し出したグラスを手にすると、アキラははにかみながらも嬉しそうにグラスに口を付けた。
「……お酒、飲んでたんですか?」
半分ほど飲み終えたところで、アキラは自分の様子を見つめていた緒方に視線を向ける。
緒方はやれやれといった体で肩をすくめると、額に落ちかかる前髪を掻き上げた。
「……現物を見られちゃノーとも言えんな」
「……ボクのせいですか……?」
緒方は大きく溜息をつくと、アキラの頭を軽く撫でた。
「……違う。アキラ君のせいじゃない。オレ自身のせいだ。……まったく……キミは勘違いしてるな……」
「……でも……」
「自分を責めるのも時と場合によるぞ。少なくともあの一件に関して、アキラ君が責められるべき理由は
何もない」
緒方の口調はあくまでも優しいものではあったが、これ以上のアキラの反論を許さない重みがあった。
アキラはグラスをテーブルに置くと、再び手を膝の上に置き、そこに視線を留める。
緒方は自分のグラスを一気に呷ると、しばらく黙ったまま、俯くアキラを見つめていた。
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しばしの間、静寂がリビングルームを包み込んでいたが、それをアキラが突然打ち破った。
「……ああいうことって、どうしてするんですか……?」
言い出すまでによほど覚悟が必要だったのだろう。
アキラは耳まで赤くなりながら、膝の上に向けた視線を外すことなく、なんとか緒方にそう尋ねた。
緒方は手にしていた空のグラスを一瞬落としそうになったが、慌ててそれをテーブルに置くと、
両肘を膝について頭を抱え込んだ。
「……どうしてって言われてもなァ……」
アキラは頭を抱え込む緒方の方にチラリと目を遣ると、すぐさま視線を膝の上に戻す。
「……だって………だって、ああいうことって、普通は好きな女の人とかにすることなんでしょう……?」
緒方は仕方なく顔を上げると、眼鏡を外し、テーブルに置いた。
鈍い痛みが襲う眉間の周辺を指で押さえながら、ソファの背凭れに身を沈める。
「……表向きはそういうことになってるだろうな……」
「……『表向き』ってどういう意味ですか?」
アキラは緒方の方に向き直ると、やや強い口調で緒方に詰め寄った。
(これだから子供ってヤツは……)
そんなアキラに緒方はフンと鼻で笑うと、両手を組んで頭上に置く。
頭痛のせいもあって、緒方はどこか苛ついている様子だった。
「そんな綺麗事じゃないということさ。……オレは昨日、アキラ君を欲しいと思ったから抱いた。
言っておくが、嫌いなら抱く気にはならん。好きかどうかはともかく、とにかく欲しいと思った。
その欲求をオレの本能が後押ししたということだ」
「……でも、ボクは男ですよっ!?」
激昂したアキラは、思わず傍らにあったランドセルを叩いた。
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