裏階段 ヒカル編 86 - 90
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車中、塔矢邸に着くまでの間会話は一切なかった。
ぴりぴりと痛い程アキラが緊張しこちらの顔色を伺っているのがわかる。
アキラの願いがわかる。
それを突き放すように門の前でアキラと荷物を車から下ろすと、そのまま車に乗り込み
発進させようとした。アキラは運転席側の窓の外に立ち、泣きそうな表情で見つめて来る。
「…そういえば、若獅子戦できみは進藤とあたるはずだったんだな。対局を休んだそうだね。
この状況では無理だっただろう。…残念だったな。だがまた機会はあるさ」
聞こえているどうかはわからなかったが、それだけ声をかけてキーを廻す。
半分程開いたウィンドウの内と外でエンジンの音が響き膨らむ。
アキラは目を閉じて自分の額に手を当てて首を振っている。
進藤の事、父親の事、多くの思いが彼の中で飛び交い交錯しているのだろう。
碁の神様は先生を連れて行く変わりに一つの大切な戦いをお預けにして行った。
意識が戻った先生がそれを聞いたらどんなにアキラに謝るところだろう。
「…ボクが悪いんだ…」
アキラが俯き、唇を噛んで呟いた。
「何だって?」
「ボクが悪いんだ……、進藤と……碁以外の事でも張り合おうとしたから…」
切れ切れの言葉がオレの胸の奥をちりりと焼いた。
新初段シリーズの時の桑原との戯れ言がアキラにいらぬ気回しを与えたのだった。
「それで碁の神様が怒って…もしもお父さんが回復しなかったら…ボクはどうしたら…」
アキラは自分の手で自分の腕を掴み、全身を震わせていた。自分を責めていた。
降参するしかなかった。
今目の前に立っているのは普段の姿からは程遠い、突然の父親の入院に心細さを隠し切れず
途方に暮れた1人の孤独な少年だった。
キーを元に戻し抜く。エンジン音が止まり、静かな住宅街の夜に戻った。
アキラが顔を上げてオレを見るが、まだ不安そうな、縋るような目だった。
その目に何度今まで捕われて決心を鈍らされてきただろう。
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「落ち着きなさい、アキラくん。とにかく、家に入ろう」
車から降りてアキラの肩を抱いて彼の家の玄関まで送る。
この家でアキラと2人きりになる事はもうすまいと思っていたのだが、ただ今は事情が
事情だった。
ベッドに横たわった先生は十分衝撃的だった。それでもまだ、オレが見たものは
容態が安定し落ち着いた姿なのだ。
家の廊下に突っ伏した先生を見た時の夫人やアキラの受けたショックの大きさは
他人には推し量れない。
自分の上の存在が、強大で逆らう事の許されなかった存在が突然一隗の物体に為り変わる。
皮膚が人ではない色になる。
愛情の欠片も持っていなかったはずの伯父に対しても戸惑いと悲しみは湧いたのだ。
ほとんど父親の分身を担っていたアキラには凄まじい体験だったはずだ。
家の中に入るとすぐにアキラがオレの腕にしがみついて来た。
「驚いたのはオレも同じだ。…とにかく、大事にならなくてよかった。大丈夫だよ」
そう言ってアキラの背中をさすってやった。アキラは両腕をオレの体にまわして来た。
もう逃がすまいとするように力が込められる。
愛情のそれというよりも、幼子が迷子の果てに自分の保護者を見つけ、非難する意を込めて
抱き着くような、そんな感じだった。
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アキラの部屋で、アキラが寝入るまで傍らに付き添ってやった。
出来うる限りの優しいキスと愛撫を重ね、緊張から冷えきっていた彼の体を温めてやると、
やがて安心したようにアキラは眠った。
そんなアキラに一切欲情しなかったかと言えばウソになる。
だがその夜はアキラを1人残しそこを出た。
そのまま例の彼女のマンションに向かった。
決して彼女をアキラの代用品としたわけではない。
オレの突然の訪問に、「最近はピルを飲んでいないから」と渋る彼女に
「もう飲む必要はない」とだけ伝えた。
その時のsexには意味があった。意味を持たせるつもりでいた。
オレは子供が欲しいと思ったのだ。自分の分身を。
今までそんな事は考えたこともなかったのだが。
先生の一件のせいだろうか、それとも意識しないまま心のどこかに潜んでいたのだろうか。
とにかく自分が死んだ後もこの世に残り、自分を追い上げた若い世代をオレに変わって
追い詰めていってくれる存在が欲しかった。彼等を脅かす存在を残したかった。
そんな望みが、その時生まれた。
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行為の後でいつものように煙草に火を点け、ふと彼女の部屋の窓際の化粧台を兼ねた
テーブルの上にノートPCが置かれているのを見つけた。
「ああ、これ?私も始めてみようと思って」
乱れた髪を整えに化粧台の前に座った彼女が自慢げに答える。
それは初心者には不釣り合いな高スペックのハイエンド機だった。妙に腹が立った。
「前にオレが勧めた時は全く興味持たなかったくせに」
「難しかったんですもの。でも今は操作が簡単になったでしょ。なあんて、お店の人に
設定も接続も全部やって貰ったんだけど。」
「…ノートPCか…」
オレがまじまじと眺めるると彼女はそれの上にガウンをかぶせてしまった。
別に物欲しそうに見たわけではない。先生の顔が浮かんだからだ。
体調が回復すれば先生が碁を打ちたがり医師らを困らせるのは明白だった。
オレは以前先生にもPCを扱う事を勧めたのだが、当然先生は気乗りがしないようだった。
だがアキラの持っている機種がもうかなり古いタイプであり、アキラと兼用ならと言う事で
ノートタイプのものをいくつか見繕った。それを思い出したのだ。
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次の日午前中に病院に出向き、その話を明子夫人にすると本体は自宅に届いているものの
先生もアキラも多忙でそのままになっているという話だった。
案の定、先生は朝の検診で碁打ちたさに早々の退院を医師らに願い入れて困らせたらしく、
それならとオレは夫人に代わってPCを病室内に設置する事を病院側に許可してもらった。
「ネット碁ならば、ここで先生もいろんな人と打てますよ」
真新しい無機質な物体を目の前にしてまだ手を出しあぐねている先生に淡々と
一通り操作を教えた。
その日の午後は、そんなふうにオレは先生とのんびりと穏やかな時間を過ごした。
夕べアキラを抱かなかった事で自信が持てていた。
気が乗らないと言いながらもやはり碁が打てない恐怖心には勝てなかったのだろう。
すぐに先生も熱心に耳を傾け始めた。
2人でPCの画面を先生と覗き込んでいるところに明子夫人とアキラが入って来た。
「あら、ちょっと妬けちゃうくらい、仲が良いわねえ。」
夫人がそう言うとアキラも一瞬何か想うような表情でこちらを見つめていたが、
オレと目があうとフッと柔らかく笑ってくれた。
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