誘惑 第一部 86 - 90


(86)
「じゃあ、加賀は塔矢が特別じゃないって言うのかよ。
あいつが囲碁が強いのも、頭がいいのも、あんなにキレイなのも、オレがあいつを好きだからって
言うのか?そうじゃないだろ。」
ヒカルはムッとした顔で加賀を睨みあげたが、そんな脹れた表情は、加賀にとってはそれは随分と
可愛らしく映るだけだった。
「だからそーゆー事を言ってるんじゃなくってなあ、何もおまえの塔矢をけなしてる訳じゃねぇぜ?
だいたい、おまえ、二言目には塔矢、塔矢って、一体、ついさっきまで誰とナニをしていたつもり
なんだよ?オレじゃなかったら殴り倒してもう一回ヤってるぜ?」
「加賀ぁ、」
今度はヒカルは甘えたような目で加賀を見上げる。
全く、コイツも困ったもんだ。塔矢も苦労するぜ。こんなのと付き合ってると。
「でもオレ…オレは加賀の事、好きだよ。大好きだよ。ホントだよ。」
「ああ、うん、オレもおまえが好きだよ。」
加賀は苦笑しながらそう答えた。
「でも、塔矢は違うんだ。塔矢は特別なんだ。」
「…わかった。それはもうわかった。もういい。今日だけでも百回くらい聞いたぞ。」
「塔矢みたいな言い方すんなよ。」
ヒカルはクスッと思い出し笑いをした。
「あいつも、すぐそういうんだぜ。もうそれで何回目だって。しかもテキトーな数じゃねぇの。
でさ、いちいちそんな事数えてんのかよ、ヒマだな、おまえ、って、オレがちょっとからかってやるとさ、
あいつ、ガキみたいにムキになって、オレにくってかかるんだ。
でもさ、そーゆーあいつって、なんか可愛いんだよな。」


(87)
なんなんだ?いつの間にのろけ話になってやがるんだ?
呆れる。
なんのつもりだ、コイツは。
さっきまでオレに甘えて抱きついてきたくせに。
これじゃいつもの、相談――を装ったのろけ話か、自慢話と、同じじゃねぇか。
信じられん。人を何だと思ってるんだ。
そんなのをこの状況で黙って聞いてやるほど、そこまでオレはお優しくなんかないぞ?
「おい、進藤、いい加減にしろ。」
加賀はヒカルの胸元を掴んで引き寄せ、低い声で脅した。
「もう一度言わせたいのか。それとももう一度ヤられてぇのか?」
「…ゴ、ゴメン…加賀……」
急にヒカルはしょぼんとした。
これだからコイツは憎めねぇんだよな。まったく、オレもどうかしてるぜ。
そんな風に表情の和らいだ加賀を、ヒカルはちろっと上目遣いで見て、それからにこっと笑って
立ち上がった。
「オレ、もう行くよ。」


(88)
「うわ、やっべー、もうこんな時間じゃん。お母さん、心配してるかなあ。」
そういいながらヒカルは慌ててリュックを背負い、スニーカーに足を突っ込む。そして一歩外にでて、
加賀を振り向いて、言った。
「ありがとう、加賀。またな!」
「ああ、気を付けて帰れよ。」
そしてヒカルは振り返らずに駆けて行った。
「またな…、って、おまえ、そんな無邪気に言うなよ。
またな、って言ったって、またヤらせてくれるって訳でもねぇんだろ?」
加賀は誰もいなくなった玄関で、ヒカルを見送りながら、苦笑混じりにそう言った。

案の定、家に帰り着くと、母親が心配そうに待っていた。けれど、あんまり疲れていたので、小言を
聞いていたくなかった。眠くて、疲れていて、家まで辿り着くのがやっとだった。だから、母親が連絡
くらいしろとか言うのを聞き流して、ベッドに入り、ヒカルはそのままあっという間に眠りに落ちた。

「ん…」
朝の光で目を覚まし、軽く伸びをした。
着替えもせずに寝てしまったらしい。なんとなく身体の節々が痛む。
とりあえず着替えようとして、服を脱いで椅子の背にかけると、小さな音がして何かが落ちた。
「あっ…」
何が落ちたのかは、見なくてもわかった。
ヒカルはかがんでゆっくりとそれを拾い上げる。
手のひらの中の鍵を見て、それからヒカルはぎゅっとそれを握り締めた。
「オレ、塔矢に会わなくちゃ。」


(89)
アキラのアパートのドアの前に立って、ヒカルは手の中の鍵と目の前のドアを交互に見ていた。
鍵を握り締めたまま、チャイムを鳴らした。だが応答はなかった。
出かけているんだろうか。イベントとかの仕事だろうか。
一旦目をつぶって、それから鍵を鍵穴に入れて回した。カチッと音がした。
が、ドアノブを回してドアを開けようとしても開かなかった。
「えっ?」
どうしてだ。今確かに鍵の開く音がしたのに。
もう一度鍵を差し込んで回してみる。また、カチッと音がした。もう一度ドアノブを回してみると、今度は
ちゃんと開いた。なぜだか、音を立てないように気を付けて、そうっとドアを開けて中に入った。
「塔矢?」
小さな声で呼んでみる。けれど応えはない。
靴を脱いで部屋に上がり、奥の部屋に向かいながらもう一度、名前を呼んだ。
「塔矢……いないのか?」
すると、低い、疲れたような声が返ってきた。
「…いるよ。」
ドキン、と心臓が大きく脈打つのを感じながら、声のするほうへ向かった。
「塔矢?」
カーテンが閉められてて、昼間なのに部屋の中は薄暗い。
部屋の隅にうずくまっていたアキラが顔を上げてヒカルを認めた。
アキラはヒカルを見て、小さく笑ったように見えた。
薄闇の中にうずくまるアキラを見て、その心細げな、やっと浮かべたような笑みを見て、ヒカルは
心臓がズキッと痛むのを感じた。


(90)
見上げる瞳が切なくて、ヒカルは泣きそうになりながら、こんな事を訊いた。
「塔矢…オレを、好き?」
「好きだ。」
「オレが誰を好きでも、もしオレがおまえを好きじゃなくっても、それでもオレを好き…?」
大きく目を見開いて、アキラがヒカルを見た。深い、底なし沼のような、その目。
そんな、悲しい顔をするな、塔矢。
「……ウソだよ…」
アキラは力なく首を振って、俯きながら言った。
「イヤだ。ウソでも、例えだけでも、そんなの、イヤだ。」
「オレを、信じられない?」
「ボクが信じられないのはボク自身だ。ボクは、自信なんてないんだ。
もし、キミに拒絶なんてされたら、それだけで、ボクはもう駄目だ、って思ってしまう。きっと。
それでもキミを好きだって言い続ける自信なんて、ボクにはないんだ。」
そうして、ヒカルを見上げて続ける。
「だからキミの周りにいるみんなからキミを隠してしまいたい。
ボクだけを見てくれなくちゃ、イヤだ。他のヤツなんか見てたら、イヤだ。話をするだけでもイヤだ。
キミをどこかに閉じ込めて、他のヤツなんか見えないように、ボクだけしか見えないように、ボクだけ
としか話も出来ないように、それくらいキミを独占したい。」
見上げる黒い瞳が涙に濡れている。
「そんなの、できっこないって、わかってるけど。」
そう言ってアキラはまた寂しそうに笑った。



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