平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 86 - 90
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『ヒカル』
と、懐しい声が、名を呼ぶ気がする。
向かいに座る人もない碁盤と対峙して、ヒカルは音もなくそこに石を置いた。
『ほら、ヒカル。どうしてヒカルは考えもなく、そこに置きますか。ここは
はさむより開いた方がいいんです』
『別にいいじゃん、置きたいところに置いてかまわないんだろ?』
『でも、これでは勝負の行方が』
『いいよ、勝ち負けは。遊びだし』
『あ、遊びとはなんです、遊びとは! 囲碁というのはですねぇ、打つ手の
一手一手に、その人の品格というものが実に如実に現れるものなのです。
もっと真剣に……』
『あーーー、わかったから、次の手、打ってよ、佐為』
『………』
佐為の困ったように潜められた柳眉に見とれたところで目が覚めた。
今、もう佐為の思い出は、以前のように彼の胸をキリキリと痛めつけることはない。
それは秋の名残の赤い葉が、川面に落ちてどこか遠くに流れていくのを眺めている
気持ちにも似ていた。
十一月にもなると、宮中はにわかに落ち着かなくなる。
渡殿を行き交う女房たちの足運びも、気のせいかせわしない。
なにしろ、この霜月は睦月についで忙しい。新嘗祭、豊明節会、五節舞と大きな
行事が立て続けにある。
毎日の参議の内容も、まつりごと向きよりも、自然と近く行われる祭事の手順やら
役の割り振りやらの話が大部分をしめるようになるのだ。
もっとも、帝の御目にとまるような華々しい役どころは、すでに先の月のうちに
決められてしまってはいたが。
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どこそこの家の誰それを、せめてその役どころの補佐として登用してほしいだとか。
なんとかこの機会に自分の娘が、どこぞの殿方の目にとまるように、はからって
欲しいだとか。
伊角の懐に届けられる金品は枚挙にいとまがない。
それをそのまま突き返すのは角が立つので、同等の価値のある楽器やら、調度品やら
に変えて、送り主の元に届けさせる。
そんな雑事に「伊角派」の面々――和谷や門脇、岸本といった面々は奔走していた。
中には、届けた品物を、伊角が籠絡できないからと、その和谷や岸本に渡そうと
するやからもいるらしい。
「まったく、これではまともに、今年の収穫の話もできやしない」
ぼやく伊角を、ヒカルは笑って眺める。
内裏の一角にしつらえられた、伊角のための控えの間にふたりは座していた。
さすがに十一月も半ばをすぎると空気も身をきるばかりに冷たくなってくるから、
御簾は降ろされたままだ。
その降ろされた御簾の下から、ツッとひとつの文が差し入れられた。
部屋の中のふたりは、その様子を黙って眺めて顔を見合わせ、一緒に溜め息を
つき、ヒカルがかったるそうに腰をあげて、その文を取りに行く。
「次の五節の舞において、舞姫付きの童女に、ぜひ我が二の姫を召し上げて
いただきたく……」
その場に立ったまま、ヒカルが読み上げてみせたその文面に、伊角が首を
振った。
「もう五節の舞の御役目はみんな決まってるっていうのに…」
「伊角さんに言えば、なんとかしてもらえると思ってるのかもね」
ヒカルは言いながら少し御簾を高く上げた。
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そこから眺める中庭は、せんだってまでの秋の美しい風情はない。萩もススキ
も、乾いた朽ち葉色になって力なく首を垂れている。背の低い紅葉も植わって
いたが、つい先ごろまで僅かではあったが紅の色を残していたその枝に、今は
ただ一枚の葉も残っていない。
「全部、落ちちゃったなぁ」
「近衛」
「なに?」
「お前、少し変わったな」
「……そうかな?」
「なんか、大人っぽくなった」
今まで顔立ちそのものは成長しても、その表情の中に変わらずにあった子供っ
ぽさが、急に消えうせた。
同時に、2.3日前まで伊角の胸を騒がしていた、あのどうにもむしゃぶり付き
たくなるような濃い色気も失くなって、変わりに残ったのは、朝に降りる霜の
白さにも似た、不思議な美しさだった。
「今までがガキっぽすぎたんだとか、和谷には言われそう」
ヒカルは御簾をそっと降ろす。
確かに自分は少し変わったのかもしれない。
佐為の死を聞かされて、信じられなくて悲しくて、それを受け入れようと足掻い
て、結局無理だと悟った。
忘れようとして、そんなことは出来ないのだと、反対に嫌というほど思い知った。
あいつはいなくなったのに、やはり自分が欲しいのは佐為だけだと、体に知ら
されて、諦めが付いた。
藤原佐為が好きだ。
自分はきっと、この想いと彼の思い出を、ずっと死ぬまで抱えて生きていくの
だろう。
不思議なことに、そう考えて初めて、ヒカルは佐為の死を正面から受け止め
られた気がする。
こういう諦めにも似たものの悟り方が、『大人になった』という言い方を
されるのなら、きっとそうなのだろう。
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風が吹いて、枯れた萩の葉がかさかさと音を立てるのが、御簾の向こう
から聞こえてくる。
アキラに謝らなくちゃと考えた。
彼にはひどいことをしてしまった。
あの時の、彼になりふりかまわず縋り付いてしまった自分を思い出すのは恥ず
かしいけれど、でも、会って友人としての筋は通しておきたい。
それから、あかり。彼女にも甘えたいだけ甘えてしまった。幼なじみの気安さで。
あれから検非違使庁にも顔を出した。
加賀はヒカルをみるなり、また扇でこつんとヒカルの額をつついた。
「まったく。しっかりしてくれよ」
それで終わり。ヒカルは再び検非違使の仕事にも復帰した。
聞く話によると、あの日ヒカルに狼藉を働いた男達は、それぞれが遠い築後やら
石見やらに左遷になったそうだ。
ばたばたと荒く板敷きの廊下を踏みしめる音がして、和谷と門脇が部屋に入って
きた。
吹き込んだ空気の冷たさに、ヒカルは手首に鳥肌をたてる。
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「まったく、みんな自分のことばっかでやってらんねぇよ! ちっとは政の
ことも考えろっての!」
愚痴を吐く和谷を横目に、門脇が苦笑いしながら、伊角に見聞きしたことを
語っている。
「今日は、陰陽寮のお役目確認でね。清涼殿にあちらのお偉いさんが集まって
るよ」
「また、妙なことにならないといいけどなぁ」
伊角が門脇がもちこんだ書類を眺、その端麗な眉をしかめながら、言う。
「そうだな、去年もあいつらが十日も前になってから、方角がどうのとか
言いだして、儀式を行う殿が替わってエライ騒ぎだったっけな」
「あ、そうだ、近衛」
和谷が特徴ある癖の頭髪をゆらして、ヒカルの方を見た。
「倉田さんから聞いたんだけどさ、おまえ、賀茂アキラがどうしてるか
知ってる?」
「え?」
「なんか、この三、四日、陰陽寮に顔出してないらしい。使いを出しても門も
開けてもらえないとかで…。なんかあったのか?」
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