追憶 9 - 10
(9)
「それでも、欲しいと思うのはキミだけだ。」
温かい体温。キミの匂い。キミの肌触り。
何もかもが愛おしくて、大切で。
キミの髪を、目、頬を、唇を、顎を、両方の耳を、一つ一つ確かめるように指で触れ、唇で触れる。
そうしてもう一度柔らかなキミの唇にくちづけながら、キミの身体を抱き寄せると、キミは空いた手で
カーテンを閉め、そのまま折り重なるように抱き合ったまま床に倒れこんだ。
重なり合った胸から、キミの鼓動を感じる。そしてキミもきっと、ボクの心臓の音を感じている。
こうしてキミと二人でいつまでも抱き合っていられたらいいのに。
今キミは当たり前のようにボクの傍にいて、ボクは当たり前のようにキミの体温を感じていて、それ
だけでボクは幸せで、こうしているとずっとこんな時が続くような気がする。
夢と現実の境が無くなってくるような気がする。
キミとの諍いも、昔にあったことも、それはボクの身におきたことでなく、遠いどこか別の誰かの出来
事のように感じてしまう。
それでも、いつか終わりが来るのかもしれない。
いつまでもこんな日が続くなんて保証はどこにも無い。
自分にとってはどんなに当たり前で自然な事であっても、端から見れば不自然で異常な事だって事
くらい、いくらなんでもそれくらいはわかってる。
人に言えることではないし、いつまでも許される事ではないのかもしれない。
そうしたら、もう一緒にはいられないのかもしれない。
そんな日が万が一にでも来るかもしれないなんて、考えるだけでも嫌だけれど、それでももしかしたら
そんな日が来てしまうのかもしれない。
(10)
それでも。
それでもボクらは離れられない。
ボクはキミからは逃げられないし、キミはボクからは逃げられない。
例え取り巻く状況がどんなに変わってしまったとしても。
碁とキミと、ボクはその二つから逃れられない。
ボクは何があっても一生碁打ちだ。碁打ちとしてしか生きられない。それ以外にボクの生きる世界は
無い。ボクから碁を取り去ってしまったらボクの中に残るものは何も無い。
そしてその世界の中に、キミも、否も応も無く飲み込まれてしまっている。
だからボクが打ち続ける限り、キミが打ち続ける限り、ボクらの意思や状況なんてものとは無関係に、
ボクとキミとは向かい合う。
ボクが生きていく上で必要なものは二つある。
一つは碁を打つこと。そしてもう一つはキミと共にあること。
ボクにとってそれがないと生きていけないと思うものは二つあって、でもそれは一つしかないのと同じ
事だ。
周り中から甘やかされて、多分必要以上に大切に育てられた我儘なボクは、我慢するという事を知ら
ない。欲しいと思うことを、欲しいと思う気持ちだけで済ませておく事が出来ない。
望むもの全てを望むままに欲しいと思うことは、とてつもなく強欲な事なのだろうけれど、けれどボクは
それを抑えることが出来ない。その欲を抑える必要性すら感じない。
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