誘惑 第三部 9 - 10
(9)
玄関にアキラが待っている。
ヒカルが靴を履こうとすると、スペースを空ける為に、すっとアキラの身体が動いた。
その動きに、ヒカルが一瞬止まった。止まってアキラを見る。アキラの目が何かもの言いたげに
自分を見ている気がする。忘れる事なんて、できるはずがなかった。この黒い瞳を。真っ直ぐな
眼差しを。
一瞬、ここがどこであるか、今がどういう状況なのかを忘れて、いつものように――以前のように、
彼を引き寄せて、唇を重ねてしまいそうになった。
だがヒカルが腕を伸ばした瞬間に、アキラが視線をそらせたので、ヒカルは行き場を失った手を
ぎゅっと握り締めて、そして自分もアキラから視線をはずして、スニーカーの紐を結び直した。
(10)
家を出て、ヒカルは無言で歩き始めた。その後ろからアキラがついてきた。
ヒカルの足は近所の公園を目指していた。昼間は子供たちの声で賑やかな公園も、夜になると
ひっそりと静まり返っている。
ヒカルは足を止めて、振り返り、
「何。」
と、ぶっきらぼうに尋ねた。
「何の用?」
「キミに、言いたい事があって、来たんだ。」
硬い声でアキラが答えた。
「だから、何。言いたい事って。」
ヒカルの冷たい口調に、アキラが怖気づいているのがわかる。
何も言わないでいい。今、おまえがオレに会いに来てくれただけで、それだけで、いい。
またおまえの顔を見れただけで、それだけで、いい。そう言ってしまいそうになる。
ヒカルの問いかけに、アキラは躊躇するように眉を寄せ目を閉じ、けれどそのためらいを打ち切る
ように目を開けて真っ直ぐにヒカルを見つめた。
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