灑涙雨 (さいるいう) 9 - 10
(9)
熱く火照った肌を涼風がさらりと撫でていく。
ふと、ヒカルは外の雨音が止んでいるのに気付いた。
アキラの腕をすり抜けて単を羽織り、庭に降り立って空を見上げると、いつの間にか雨は上がり、雲の
切れ間から星々が見えはじめていた。
雨に濡れた草の匂いが、枝を揺らしながら肌を撫でていく涼しい風が、心地良い。
見上げるうちにも、見る見る雲は晴れてゆく。西の空には弓形の七日月が傾きかけていた。雨で洗わ
れた空は常よりも更に鮮やかで、黒く深く透きとおるように広がる夜空に、星々は大河の流れのように
煌めいていた。
ヒカルの後を追うようにアキラも庭に下りて、同じように空を見上げた。
降る程の星々のきらめきが、なぜだか心にしみるような気がした。
星を見上げて無口になってしまったヒカルを見ていると、不意に悲しみがこみ上げて星空を見上げる
彼を背中から抱いた。
「ヒカル、」
星を見上げる彼は、二度と逢えない人を想っているのではないだろうか。
自分はまだ、こうして時折あのひとの事を思い出してしまう。こだわっているのは自分ばかりのようにも
思うのに、それでもまだ彼へのこだわりを捨てきれない自分は、何て器の狭い男なのだろうと自嘲する。
「おまえ、俺が佐為の事考えてると思ったろう。」
見透かしたようにヒカルが言う。
「そりゃ、考えなかったって言ったら嘘だけど。」
ヒカルはそっと胸に回された腕に自分の手を重ねた。
そして星を見上げ、遠く儚い人に想いを馳せる。
「佐為とだってさ、しょっちゅう逢えてた訳じゃない。
あいつの警護役を離れてしまったら、本当に全然逢えなくなった。
だから久しぶりに逢えたりしたらすごく嬉しくて、」
彼の手をきゅっと握り締めてヒカルは微笑んだ。
「最後にあいつに逢ったときも、それが最後だなんて思わなかった。
逢えて嬉しくて、別れた後は今度はいつ逢えるだろうって、楽しみにしてた。」
昔を懐かしむように薄っすらと微笑みを浮かべたヒカルを、アキラは辛そうな顔をして見ていた。
彼の腕に包まれたままヒカルは振り返り、彼の頬にそっと触れて彼の顔を覗きこんで、優しく微笑んだ。
(10)
おまえが辛く思う必要は無い。
佐為を思い出すことは、悲しみだけじゃないんだよ。
俺は幸せだった。
俺はあの美しい魂と出会えた事を誇りに思う。出会わなければ良かったなんて思わない。忘れてしまい
たいなんて、もう、言わない。
俺が佐為を大事に思っていたのと同じように、佐為も俺を大事に思ってくれたという事はわかっている。
佐為と過ごした幸せな日々は思い出すだけで俺を幸福にしてくれる。遺された哀しみは決して消えはしな
いけれども、出会えた喜びは、共に日々を過ごした幸福は、その思い出は更にそれを凌駕するのだと、
やっと思えるようになった。彼の姿も、彼と見た光景も、時がたつに連れ細部の輪郭はおぼろになってくる
けれど、その時の空気の温度や色や匂いは、そういったものはいつまでも失われずに心に残る。その時
彼が何と言ったのか、言葉の仔細は忘れてしまっても、彼の話した内容は覚えている。そしていつかその
意味さえすっかり薄れてしまっても、声の響きはいつまでも耳に残るだろう。
彼と出会えて幸せだった。
彼を愛して、彼に愛されて、俺はとても幸せだった。
でも、わかるか?
俺がそう思えるようになったのも、こうして今俺がおまえを愛していて、そしておまえに愛されている事を
深く感じているからだという事を。
だから俺はあいつに会えたことと同じように、おまえと出会えた事を、今ここにおまえと二人でいる事を、
とても幸せに思う。だからこの時を大事にしたいと思う。
「…だから今、おまえといるときを大事にしたい。」
さらさらと滑る彼の黒髪を梳きながら、白い頬にそっとくちづけした。
「大好きだよ、おまえが。」
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