残照 9 - 10
(9)
真剣勝負として臨んだ自分を更に上回ったsai。彼と出会って、自分は変わった。
プロを引退したという事だけでない。
囲碁への情熱を新たにし、まだ自分の中に新しい碁があるのだと気付き、新しい世界へと
もう一度足を踏み出した。自分にそうさせたのはsaiとの1局だ。
そのsaiはもういないのだと彼は言う。それは行洋にとっても衝撃だった。
だが行洋のそんな衝撃も後悔も、この少年の胸の中の痛みに比べればどうということも
ないのかもしれない。
行洋は痛ましげな眼差しでヒカルを見下ろし、明るい色の前髪をそっとはらった。
saiとの別れが、きっとこの少年にとっての初めての別離だったのだろう。
それがどんなに辛いことなのか。親しい人を失う悲しみを、自分も何度も味わってきた。
最初の別離の苦しみも悲しみも、今はもう遠い思い出の中にしかない。
別れの味に慣れてしまった自分を、行洋は少し悲しく思った。
けれど、どんな出会いも、最後には別れで終わるのだ。
どんなに辛くても、それは避けられないことなのだ。
これからも、何度も、同じような、けれどその都度異なる別離が、彼を襲うだろう。
せめてそれらが、少しでも、彼にとって優しく、納得のできる別離であることを希いながら、
行洋はヒカルの髪を梳き、頭をそっと撫でてやった。
(10)
優しい手の感触にヒカルは目を開けて、そして、その手が行洋のものであるとわかって、
慌ててソファから身を起こした。
「ご、ごめんなさい、オレ…」
「済まないね、」
優しい慈しむような目で笑って、ヒカルの頭を撫でた。
「辛いことを言わせてしまったようだな。」
その言葉にヒカルは首を振った。
誰にも言えなかったことを聞いてもらえた。そしてきっと、行洋にとっては訳のわからないことを
口走って子供のように泣き喚いた自分を、受け止めてくれた。
嬉しかった。ありがたかった。少し恥ずかしくもあり、照れくさくもあったけれど。
「進藤君、」
ヒカルの頭をポンと軽くたたいて、行洋は呼びかけた。
「明日からの君の闘い振りを楽しみにしているよ。」
思いがけない行洋の言葉に、大きな目を見開いてヒカルは行洋を見上げた。
「…ありがとうございます。」
ヒカルの言葉に行洋はにっこりと笑った。
「塔矢先生…」
ヒカルは立ちあがって、深く頭を下げた。
「ごめんなさい…ありがとうございました。」
そうしていると、また涙が出てきそうになった。
唇を真一文字に引き締めて、涙をこらえて、ヒカルは顔を上げた。
そんなヒカルを、行洋は優しく微笑んで見ていた。
その微笑みを見て、ヒカルは、ああ、塔矢に似ているな、と思った。
やっぱり親子なんだなあ、と思いながら、もう一度、深々と礼をした。
そうして部屋を出て行こうとしたヒカルに、行洋が背後から声をかけた。
「そうだ、進藤君、」
呼び止められて、ヒカルは振り向いた。
「よかったら、今度うちにおいで。一度、君と手合わせしたい。」
ヒカルは行洋の言葉にこっくりと肯いた。
|