黎明 9 - 11
(9)
夕陽が山々を染め始めようとする刻、都の外れに牛車が着き、一人の少年が屋敷に運び入れ
られた。
少年を運ぶ手助けとなっていた男は、屋敷の主が目配せするとすっといなくなった。
寝台に横たえられた少年を、そのやつれ果てた姿を、またもや悲痛な眼差しで見下ろした。
薄暗がりの部屋から、この屋敷の明るい部屋へ移され、薄紅く染まる柔らかな光のもとで彼を
間近に見ると、彼の顔も、身体も薄汚れており、また、衣には甘ったるいかおりが染み付いてい
て、清浄な筈のこの屋敷の空気までも汚されるようだ。
彼の身を清め、衣服を替えなければ、そう思って式を呼ぶ。
童の持ち来た湯に布を浸して絞り、それから汚れた衣服を取り払った。
だが、灯りの下に露わにされたその身体を見下ろして、それを拭き清めようとする手は止まり、
その手の持ち主は小さく眉をひそめた。
痩せた体と、陽に当たらずに白くなった皮膚は、妙な嗜虐芯をそそるものがあった。実際、彼を
乱暴に扱う者も少なからずいたようで、彼の身体には愛撫の跡だけでなく、痣や縛られたような
跡が古いものから新しいものまで数多く残されていた。
その傷から目を逸らしながら、少年の身体を清め、新たな衣で彼の身体を包んだ。
その時少年がうっすらと目を開いたので、思わず喜びに彼の名を呼んだ。
「近衛…!」
(10)
「なんだ…よ、それ?知らねえよ…そんな名前。」
たどたどしく、けれど呼びかけを否定する言葉に、唇を噛みながら、けれどもう一度問う。
「では、君の名は?」
「知らねえ。忘れたよ。要らねえんだよ、名前なんか。」
「名がなければ呼ぶのに困る。君が忘れたというのなら僕が教えてやる。近衛、」
「その名で呼ぶな!」
その呼び名は、嫌いだ。
嫌いだ。訳なんか分からない。でも、そう呼ばれるのは嫌だ。
「では…ヒカル、」
ヒカル、と、呼びかけられて、不意に涙がこぼれそうになった。
その呼び名は遠い甘やかな記憶を呼び起こした。
昔、自分をそんな風に呼んだ人がいたような気がする。あれは、誰だったろう。うららかな春の
日差しのような優しい笑み。柔らかな声で、ヒカル、と呼びかけたのは、あれは、誰だったろう。
「……それなら、いい。」
ぽつりと言った後に、自分にそう呼びかけた人物に改めて目をやった。
「…あんた…、誰?」
「…賀茂明。」
「ふ…ん。」
つまらなさそうに見返し、ふとかち合った視線に、怯えたように目をそらした。
何がそんなに恐ろしいのかわからない。わからないけれど、今、自分を見つめている真っ直ぐな
眼差しが、とてつもなく恐ろしいと感じた。
闇を切り裂く鋭い光。泥のような安寧に浸っていた自分を白日の下にさらけ出すようなその視線。
その光は、見たくなかった真実を照らし、目を逸らしていた自分自身の姿をさらけ出し、事実を眼
前に突きつける。闇が光を恐れるように、ヒカルはその光を本能的に怖れた。
恐ろしくて逃げ出したいのに、起き上がる事もできず、ましてやこの光から逃れる事などできない。
逃げ出す事ができないまま、ただ顔を背け、ぎゅっと目を瞑った。
恐怖はそのまま飢餓感と寒さをもたらす。その予感に怯えて、彼は身を縮めた。
(11)
重苦しい思いを抱えたまま、アキラは自分を拒むように小さく縮こまるヒカルを、ただ眺めた。
香の効果とはいえ、ヒカルが自分を認めないのが、悲しかった。
彼とは親しい友であった筈ではないか?いや、実際にはそれ程親しかった訳ではないのかもしれ
ない。けれど、顔も、名も、忘れられてしまっている事に、やはり衝撃を受けた。いや、それだけで
はなく、自分の存在そのものが忘れ去られてしまっているのかもしれない。そんな恐怖を感じて、
ぞくりと背筋が震えた。
自分が、自分自身の存在が、彼から拒絶されているような気がした。
否。
気がした、のではない。
彼は正しく拒絶していたのだ。彼から最も大切な人を無情に奪ったこの世を、この憂世にあるもの
全てを、自らの存在を賭けて拒絶し、否定していたのだ。
何故、と声に出さずにアキラは問う。
答えのわかりきった問いを。
それほどまでに、彼を失った事は君にとって苦痛だったのか。
彼を失った君の心には僕のことなど欠片も残っていないのか?それほどまでに、君にとって彼は
大きな存在だったのか。彼を失ったら全てを失ってしまっても構わないと言うほどに。
それほどに、彼のいない世界は君にとって意味の無いものなのか。
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